じじぃの「人の死にざま_1577_康熙帝(清の皇帝)」

【細谷の世界史マンガ講義】第2話「康熙帝と三藩の乱」〜黄龍、堕つ〜 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=33oSPUR7Fys
康熙帝時代(清)の中国

モンゴルは独立できたのに、なぜウイグルチベットは独立できなかったのでしょうか? 2009/8/22 Yahoo!知恵袋
回答
チベットブータンウイグル内モンゴル外モンゴル満州、中国これらの国は清に含まれていた国々です。現在において外モンゴルブータンと中国の3つに分かれています。
中国が外モンゴルブータン以外の国々を吸収してしまったことになります。清が崩壊した後に、チベット鎖国ブータンはイギリスの影響下に、ウイグル外モンゴル内モンゴル満州、そして中国も独立します。チベットの一番大きな問題は、鎖国したことにあります。イギリスとの交渉を全部断ち、ロシアと関係を持つことを嫌がり、鎖国したことで独立を守っていると勘違いしたいたせいで、第二次大戦後に中国の一部として認められてしまいます。それと違って外モンゴルは政府を作り、独立宣言し、各国へ手紙や大使などを送り、各国に認めてもらおうと必死に動きまわっていました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1429677989
康熙帝 ウィキペディアWikipedia)より
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄菀(げんよう、菀は火偏に華)、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で「聖」の文字を含む廟号がこの康熙帝と、遼最盛期の皇帝聖宗の僅か2人にしか与えられていないことからも窺える。 また「祖」の文字も普通には劉邦の高祖など王朝の始祖しか与えられない廟号であるが、4代目であるにもかかわらず康煕帝には与えられている。

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同時にわかる! 日本・中国・朝鮮の歴史 小口彦太/著 PHP文庫 2012年発行
清の最盛期への道を開いた学問大好きの康熙帝(1661〜1796) (一部抜粋しています)
日本、朝鮮半島、大陸がそろって国土の分裂や大きな戦争がなく、ほぼ平和のうちにすごした貴重な時期――それが18世紀だ。
とくに清では、17世紀の後半から18世紀を通しての康熙帝雍正帝乾隆帝の3代の治世は、「三世の春」と呼ばれた黄金時代だった。このあいだ清は、モンゴル、チベットウイグルなどの周辺地域を次々と支配下におさめている。
清では、これまで人口が1億を超えることはなかったが、16世紀末から人口が急速に増え続け、その後200年で3億人ほどになる。アメリカ大陸が原産のトウモロコシ、カボチャ、サツマイモなどの栽培の普及と、黄河揚子江を結ぶ運河の拡大などの物流の発達が、増えた人口を支えたのである。
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康熙帝は学問好きの皇帝で、明代の末期にイタリア人のマテオ・ロッチやドイツ人のアダム・シャールが伝えた西洋の数学や地理学、天文学などをさかんに学んだ。
今も高校の数学に出てくる「幾何学」という言葉は、マテオ・ロッチの指導で暦学者の徐光啓がつくったものだ。
清が建国されたばかりの時期は「女真族なんか田舎者のくせに!」と思っていた朝鮮の役人や儒学者も、やがて清の学問のレベルを認めて受け入れるようになる。
18世紀には、ヨーロッパ人も中華圏の文化を高く評価し、革命前のフランスで広い影響力を持っていた思想家のヴォルテールも、孔子を崇拝していたという。