じじぃの「科学・芸術_970_中国・明王朝」

万里の長城

世界史の窓
中国の秦の始皇帝が北方の匈奴に対する備えとした施設。戦国時代から修築は始まっており、始皇帝はそれを修築した。現在見ることができるのは始皇帝時代のものではなく、明代にさらに巨大に作り直したものである。
15世紀初め、明の永楽帝は、中国の諸王朝の中で初めてモンゴルに対する攻勢に転じ、五度にわたって万里の長城を越えてモンゴル遠征を行い、その勢力を圧倒した。しかし、永楽帝の死後は、軍事的優位を失い、1449年には土木の変でモンゴル・オイラトのエセン=ハンに敗北するという事態に陥った。そのため、明は再びモンゴルに対する北辺の守りを固める必要が出てきた。1474年、憲宗の時に万里の長城の修築を開始し、その後、約100年かけて修築が続けられることとなる。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-078.html

『中国の歴史を知るための60章』

並木頼壽、杉山文彦/編著 赤石書店 2011年発行

明王朝 洪武帝から永楽帝へ より

のちに明(みん)の太祖となる朱元璋(しゅげんしょう)は1328年貧困地域である濠州(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の四男として生まれた。父母の死後、生活苦から僧房に入るがほどなく乞食僧となって放浪していた。1352年、劉福通配下の土豪の郭子興が濠州を占領すると朱元璋は紅巾軍に参加し、急速に頭角を現し、軍団の実力者となった。朱元璋は少数の部下とともに南下し長江を越え1356年、集慶路を攻撃し、応天府(現在の南京)と改名した。江南の地主層の支持を得て、さらに浙東の著名な儒教的知識人をブレーンに起用することで、流民的反乱集団から地方政権に変貌した。
元末の反乱勢力のなか、天下をうかがう勢力は九江(江西省)の漢王陳友諒、蘇州の周王(のちに呉王)張士誠、南京の朱元璋に絞られた。朱元璋はまず1363年湖での水上戦で陳友諒の水軍を壊滅させ、逃走した陳友諒を追撃して殺害した。ついで1366年、20万人の軍隊を派遣して蘇州を総攻撃した。張士誠は半年以上にわたって抵抗したが、1367年蘇州は陥落し張士誠は自殺した。1368年はじめ、朱元璋は南京で皇帝に即位、国号は明、年号は洪武(こうぶ)と定められた。
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北方に追いやられたモンゴルが勢力を盛り返すと、南京に首都を置く明にとって北方防衛のための膨大な軍隊を南京からいかにコントロールするかが課題だった。そのため洪武帝は、北方防衛と統治を充実させるため、自分の息子たちのうち有力な者に軍隊を与え王として分封し北方の長城線に配置した。洪武帝には26人の男子があったが、そのうち長子の朱標(しゅひょう)が皇太子とされたほか、第2子朱ソウ(しゅそう)が秦王として西安に、第3子朱棡(しゅこう)が晋王として太原に、そして第4子朱棣(しゅてい)が燕王として北平(現在の北京)に分封された。またそのほかの息子たちも帝国内の戦略拠点に分封され、国内治安の維持と南京防衛の役割を担った。
燕王 朱棣は洪武帝の息子のうちもっとも有能で武勇に優れた者で、21歳で北平へ派遣されると、一流の武将の指導のもと対モンゴル戦の訓練に励んだ。燕王は晋王と合同で軍隊を率いて数回にわたりモンゴルへ出撃して勝利を収めた。燕王の初陣での活躍の報を聞いて、洪武帝は「朕に北顧の憂いなし」といって歓喜した。
1392年皇太子朱標が38歳の若さで急逝した。洪武帝は後継者として燕王を推したが側近は朱標の第2子允ブン(いんぶん)を皇太孫とすべきと強く献言したこともあり、その献言を受け入れた。1395年秦王、1398年には晋王が亡くなり、燕王は諸王のなかの最年長者として軍事力をにぎり、その実力はさらに上昇した。同年、洪武帝は死亡、享年71歳だった。皇太孫允ブンが16歳で即位して新皇帝、建文(けんぶん)帝となった。
建文帝は即位後、宋濂の高弟、方孝儒(ほうこうじゅ)をブレーンとして刑罰の緩和や税の軽減を内容とする徳治的政治を目指した。建文帝の直面した難題は各地に分封されている叔父たちの処遇で、なかでも帝位に野心を抱く燕王が最大の脅威だった。南京で削藩(諸王の封地の取りつぶし)の方針が決まり、諸王がつぎつぎと削藩されていくと、建文帝と燕王との関係は緊迫化する。1399年、謀反計画を理由にして燕王への逮捕命令が出されると、燕王は「君主の難を靖(やす)んじる」(皇帝の側近にある奸臣を取り除く)というスローガンのもとに挙兵し、「靖難の役」がはじまる。緒戦は数に勝る政府軍が優勢だった。しかし燕王は、素早く北方の拠点を固め南京背う負に不満をもつ華北の人びとを結集し自軍を強化した。政府軍が燕王軍に決定的な打撃を与えられないうちに、1401年末、燕王は全軍を率いて北平を出発、政府軍との決戦に打って出た。翌年6月、燕王は南京を陥れ、建文帝は宮殿に火を放って自殺した。燕王は7月に皇帝に即位し、永楽(えいらく)と改元し、北平への遷都を決定した(正式な遷都は1421年)。永楽帝は報復として建文帝の側近やその一族1万人を処刑した。皇帝の専制政治を補佐する内閣制度を導入し、宦官(かんがん)を多用し皇帝独裁権力をさらに強化した。
北平は北京と改称され、15年にわたり北京を囲む城壁、北京宮殿、道路などの建設がおこなわれ遷都の準備が進行した。江南から北京への穀物などの生活物質を輸送するため大運河が整備され、南の経済先進地帯と北の政治・軍事拠点とを結びつけた。1420年遷都の詔がだされ、翌年北京が正式な首都となった。