壱岐の元寇-文永の役
壱岐は、鎌倉時代に2回の元からの侵略を受けました。
日本史で良くいわれる、文永の役と弘安の役です。
この2回の元寇で壱岐は壊滅的な打撃を受け、残った人口はわずかに2けたの数字だといわれています。
元寇の後、壱岐には佐賀県や福岡県からたくさんの人たちが移住してきました。
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『白人侵略 最後の獲物は日本』
三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行
第3章 大量虐殺 より
ユーラシア大陸
時代を700年遡る。
13世紀、ユーラシア大陸を最初に席捲したのが、チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍団である。
遊牧民族のモンゴル兵は、子供の頃から馬を乗りこなす術を身につけており、その練度は世界のどの騎馬軍団よりもずば向けていた。
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第5大皇帝となったフビライは、1264年に都を大都(現在の北京)遷(うつ)し、国名を「元」に改めて南宋攻略に取り掛かったが、南宋軍の強力な火力に手こずった。
その火薬の原料である硫黄を南宋に供給していたのが、火山地帯を抱える日本であった。
フビライは、南宋を攻略するために日本を南宋から切り離す必要があった。
1268年、フビライは執権(1266年、3歳で将軍職に就いた惟康親王の後見役、事実上の鎌倉幕府の統領)北条時宗への国書を大宰府に送った。
鎌倉に届いた国書は「友好を結び、親交を深めよう」という内容であったが、断った場合には武力をちらつかせる威圧に満ちたものであった。
礼儀を失したフビライの呼びかけに、時宗は返書しなかった。
その後もフビライはたびたび国書を送り、1274年には「返書を送らなければ、兵を差し向ける」と時宗を恫喝してきた。
その国書にフビライの覚悟を見て取った時宗は、フビライが侵攻してくると予想される博多湾に九州の御家人(将軍直属の武士)を集結させ、モンゴル軍の侵攻に対する防備を命じた。
半年後の10月6日、モンゴルと高麗の連合軍3万が、900隻の艦隊で対馬沖に姿を現した(「文永の役」)。
10月6日、対馬の小茂田浜に上陸したモンゴル軍は、対馬の代官であった宗介国率いる80騎の武士を討ち取って対馬を占領したあと、壱岐に侵攻して島を守る武士を皆殺しにした。
壱岐には大刀洗(たちあらい)川という川があるが、この名前はモンゴル兵が日本の武士を斬殺して血塗られた剣を洗ったことに由来する。
壱岐を占領したモンゴル軍は島の女を攫(さら)って船に乗せ、手のひらをくり抜いて縄で数珠つなぎに通し、盾にして10月10日に博多湾に押し寄せた。
そのため武士たちはモンゴル軍船に弓を射ることができずにモンゴル兵の上陸を許した。
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博多の街に押し入ったモンゴル軍が街に火を放ったとき、100騎を超える騎馬武者の放った矢がモンゴル軍の司令官に当たって落馬した。
この一矢によって、武士たちは指揮官を失って混乱するモンゴル軍とほぼ互角の戦いに持ち込むことができた。
その後、数日間におよぶ激闘を武士たちは一歩も退(ひ)かずに戦い抜き、矢とてつはうが尽きたモンゴル軍は撤退して「文永の役」は終った。
しかしフビライは日本侵攻を諦めなかった。
文永の役から7年後の1279年、南宋を滅ぼしたフビライが、またしても時宗に使者を送り、隷属するよう求めて来たのである。
時宗は返書する代わりに使者の首を刎ね、九州の御家人に博多の防衛を命じた。
御家人たちは、博多湾全体に20キロにわたって高さ2メートルまえ石を積み上げた防塁を築いて、モンゴル軍の襲来に備えた。
1281年6月16日、前回を上回る4万人を擁するモンゴル軍が、3000隻を超える軍船で再び博多湾に押し寄せた(「弘安の役」)。
しかし、武士の築いた防塁を警戒したモンゴル軍は、守りが手薄で干潮のときには博多と地続きとなる志賀島を占領して攻撃拠点とした。
武士たちはモンゴル軍に占領されている志賀島に総攻撃をかけ、4日間に及ぶ激闘の末に島を奪還すると、モンゴル軍は船に退却して、その後は船上と岸でにらみ合いとなった。
膠着状態が続いた6月下旬、フビライは新たに10万人の兵を投入することを決め、3000隻を超える船を博多湾に送った。
が、折しも台風のシーズンである。
新手のモンゴル軍船が武士たちの前に姿を現した6月30日の夜に振り出した雨は、翌日には暴風雨となった。
「神風」である。
荒波に揉まれたモンゴル軍船は、岩礁に打ちつけられて砕け散るか転覆し、先を争って島の入江に退避しようとした軍船同士もぶつかり合って沈んでしまい、沈没を免れた船は200隻ほどに激減して、日本側の兵力がモンゴル軍を上回った。
嵐が去った4日後の7月5日、命知らずの鎌倉武士たちは子船に乗り、我先にと蒙古軍船に斬り込んだ。
味方の大半を嵐で失い、長期間ナミに揺られて疲れ切ったモンゴル兵は、命知らずの鎌倉武士の斬り込みに戦意を失い、8月29日に退却して「弘安の役」は終わった。
極小国日本に2度も敗れたことが、フビライの自尊心を相当傷つけたのだろう。
弘安の役の2年後、フビライは3度目の日本侵攻を企てた。
が、このとき自身の足元が揺らぎ始めた。
日本との戦準備を命じられた南宋や大越国(現ベトナム)の民衆が、納税や兵役を拒否して反乱を起こすようになったのである。
フビライは、大越国の反乱を鎮圧するために海路で軍勢を送ったが、またしても嵐に遭って大半の船が沈没してしまった。
命からがら上陸した部隊も、ジャングルに潜むベトナム兵のゲリラ戦に翻弄されて、制圧を断念せざるを得なかった。
しかも分裂したチャガタイ・ハン国、オゴタイ・ハン国、キプチャク・ハン国が同盟を組んで元に戦を仕掛けてきたため、フビライは外征どころではなくなってきた。
その後、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国は集落の時を迎える。
元では1294年にフビライ・ハンが死亡した後、低位を巡って一族の権力闘争が絶えなくなり、最後の皇帝となる順帝が即位するまでの間に9人の皇帝が入れ替わり、民心は離れて、政情不安は増していった。
そのような社会不安の中、1351年に白蓮教徒という宗教結社が蜂起して「紅巾(こうきん)の乱」という全国的な反乱に繋がった。
その中から生まれた漢民族の朱元璋の勢力が紅巾の乱を鎮圧したあと、元朝の都である大都を落城させて弦を滅ぼし、1368年に南京を都として「明」を建国した。