じじぃの「シンギュラリティ・遺伝子操作を行ったブタの腎臓移植!ニューズウィーク」

ブタの腎臓をヒトへ、拒絶反応抑えて移植 米国で初成功

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OPl0BlCrZ1c

遺伝子改変したブタの腎臓

ブタの腎臓、人につなげて尿つくる機能確認 米研究、専門家も驚き

2021年10月23日 朝日新聞デジタル
ニューヨーク大学のランゴン移植研究所は21日、遺伝子改変したブタの腎臓を一時的に人の体につなげたところ、この腎臓が正常に機能することを確認したと発表した。将来的に遺伝子改変したブタの臓器を移植に利用する異種移植医療につながる可能性があるという。
同大のロバート・モンゴメリー所長らのチームは9月25日、脳死判定された人の太ももの血管に、遺伝子改変したブタから摘出した腎臓をつなげる移植手術を実施。尿をつくる機能が確認できたほか、54時間の観察時間中に拒絶反応は起きなかったという。
https://www.asahi.com/articles/ASPBQ61C5PBQUHBI004.html

ニューズウィーク日本語版』 2022年2月8日号

日本人が知らない破壊的イノベーター50 より

ロバート・モンゴメリー ニューヨーク大学ランゴン医療センター所長

心筋の難病を抱えるモンゴメリーは3年前、医者から心臓移植が必要だと告げられた。アメリカではおよそ10万6800人が臓器の提供を待ち、毎日17人が手術を受けられずに亡くなっている。
「今のシステムでは立ち行かない。移植用の臓器を無制限に確保できるようにしなければ」と訴えるモンゴメリーは、20年余りをこの分野の進歩にささげてきた。C型肝炎ウイルス陽性者から陰性者への臓器移植に先鞭をつけ、自身も19年に陽性者の心臓をもらった。ドナーの腎臓を患者に移植し、その患者の腎臓を別の患者に提供する「ドミノ移植」の執刀を初めて行ったのも、モンゴメリーだ。
昨年9月には遺伝子操作を行ったブタの腎臓を、脳死状態の男性に試験的に移植。経過を54時間観察したところ、腎臓は拒絶反応を起こすことなく正常に機能した。この成功を受け、1~2年のうちには生きた患者に同様の手術を行いたいと考えている。10年以内にブタの腎臓は透析患者や移植を必要とする人々にとって頼もしい選択肢となり、いずれは心臓や肺の提供も始まる――モンゴメリーのみる臓器移植の未来は明るい。

『シンギュラリティは近い[エッセンス版] 』

レイ・カーツワイル/著 NHK出版/編 2016年発行

わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ より

わたしは誰? わたしはなに?

意識と関連がありながら、また別の問題となるのが、われわれのアイデンティティである。個人の精神のパターン――知識や技術、人格、記憶など――を、他の基板にアップロードできる可能性については前に述べた。その結果生まれた新しい存在は、わたしそのもののように振る舞うだろうが、そこに問題が生じる。それは本当にわたしなのだろうか?
画期的な寿命延長のためのシナリオのいくつかは、われわれの身体と脳を構成するシステムやサブシステムの再設計と再構築を必要とする。この再構築を行なうと、わたしはその過程で自己を失うのだろうか? この問題もまた、今後十年の間に、時代がかった哲学的対話から、差し迫った現実的課題へと変貌していくだろう。
では、わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルのほうなのか、コピーのほうなのか、それとも両方なのだろうか? おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳とを形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。
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このことは、人体冷凍術に関しても実際的な問題となる(人体冷凍術とは、死亡直後の人体を冷凍保存し、死因となった状況や疫病を克服できる技術と、冷凍保存および死の初期段階に受けたダメージを回復できる技術が揃った未来に生き返らせようというもの)。「保存されていた」人がついに生き返ったとしても、提案されている方法によれば、その生き返った人間は、まったく新しい物質と、同じ神経パターンのまったく新しいシステムで本質的に「再構築」されることが示唆されている。そのため、蘇生した人間は事実上、レイ2号(すなわち別人)となるだろう。
さて、この思考の流れをもう少し迫ってみよう。そうすればジレンマがどこから来るかがわかる。わたしをコピーし、オリジナルのわたしを破壊したとすると、それはわたしの死を意味する。先の結論のように、コピーはわたしではないからだ。コピーはきっとみごとにわたしになりすましだろうから、誰も違いに気づかないかもしれない。それでもなお、わたしが死んだことに変わりはないのだ。
わたしの脳のごく小さな部分を、同じ神経パターンをもつ物質と置き換えることを考えてみよう。
そう、わたしは依然としてここにいる。手術は成功したのだ(ちなみに、ナノボットなら、外科的処置を行なわずにそれをやりとげられる)。すでにこのような人は存在する。たとえば、内耳の蝸牛(かぎゅう)管の移植を受けた人や、パーキンソン病の症状を抑えるために神経移植を受けた人などだ。さて、つぎにわたしの脳の別の部分を置き換えよう。それでももとのわたしのまま……そしてさらにまた移植を……。一連の移植のあとも、わたしは依然としてわたしだ。「古いレイ」も「新しいレイ」も存在しない。わたしはもとのわたしのままだ。わたしがいなくなったと悲しむ者は、わたしを含め、誰もいない。
徐々に身体を置き換えていっても、レイはもとのままで、意識もアイデンティティもそのまま維持されているようだ。徐々に身体が置き換った場合、古いわたしと新しいわたしが同時に存在することはない。しかし、すべてのプロセスが終ったとき、そこにあるのは新しいわたしに相当する存在(すなわちレイ2号)で、古いわたし(レイ1号)はもはやいない。

したがって、緩やかな置き換えもまた、わたしの死を意味する。ここで疑問がわき起こるかもしれない。いったいどの時点で、わたしの身体と脳は、別の誰かになってしまったのだろう、と。