The First and Second Opium War | History of China (1839-1860)
アロー戦争 広州に侵入する英仏連合軍
【北京条約とは】わかりやすく解説!!内容やその後。締結のきっかけはアロー戦争!
2018年12月15日 日本史事典.com
北京条約は、1860年(安政6年)に当時の中国の王朝である清とイギリス・フランス・ロシア帝国との間で締結した天津条約の追加条約のことです。
この条約はいわゆる不平等条約でした。
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『白人侵略 最後の獲物は日本』
三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行
第3章 大量虐殺 より
清国
インド産の阿片が大量に流れ込んだ清国国内は、阿片中毒者で溢れ返るようになった。
事態を憂慮した清国政府は阿片の輸入を禁じたが、イギリス政府は清国の方針に従わずに密貿易を続けた。
イギリスの目に余る行為に対して、清国皇帝・道光帝から特命全権大臣に任命された林則徐は阿片1400トンを没収して廃棄処分にした。
さらに阿片を売買した者だけでなく、吸引する場所を提供した者まで死罪とする法律を制定してイギリス人を清国領内から退去させた。
清国側としては当然であったこの措置に対しイギリス議会では「清国討つべし」との声が上がった。
一方で、あまりにも理不尽な出兵理由に開戦を躊躇(ためら)う意見も多く出た。
投票の結果、271票対262票で開戦派が勝利したが、わずか9票という差に反対意見を無視できなくなり会議は紛糾した。
それを裁可したのもヴィクトリア女王である。
1840年8月、女王の裁可を得たイギリス政府は、イギリス本国、インド、南アフリカに配備していた艦隊47隻を広州湾に集結させ、北京に向けて出撃させた。
かくして「史上もっとも恥ずべき戦争」と自国民にすら言わしめた「阿片戦争」が勃発した。
イギリス艦隊は清国沿岸を砲撃しながら北上して渤海に入り、海河(ハイヴェア)を遡上して天津に迫ると、開戦から2ヵ月で清国政府は降伏し、翌1841年1月20日の講和会議で、
一、香港の割譲
一、賠償金600万ドルの支払い
の2条件を受け入れて戦争は終結した。
ところが、その直後に清国政府部内で対英強硬派が和戦派を追い越して「講和条約を破棄する」と一方的にイギリス政府に通知してきたため、戦争が再開されることになった。
同年4月、再び来襲したイギリス艦隊は、広州、厦門、福州、寧波、舟山を艦砲射撃で破壊して揚子江河口に迫った。
清国艦隊は迎撃に向かったが、200年以上も前に作られた青銅砲を搭載している清国艦艇の砲弾はイギリス艦隊まで届かず、逆に木造帆船の清国艦艇は、命中弾を1発喰らっただけで木っ端微塵になって沈んでいった。
イギリス艦隊は上海を陥落させたあと揚子江を遡り、7月には鎮江を占領して南京への補給路を断った。
負けを悟った清国皇帝の道光帝は、イギリスと「南京条約」を結び、最初の講和条件である「香港の割譲」の他に、
一、賠償金を600万ドルから2100万ドルに上積み
一、広州、厦門、福州、寧波、上海の5港の開港
一、領事裁判権(外国人が清国内において罪を犯しても、清国に裁判権がない)の承認
一、最恵国待遇
一、関税自主権の放棄
一、阿片貿易の黙認
という6つの新たな要求を受け入れて講和を結んだ。
・
世情混沌とする中、世を憂いて清国打倒に立ち上がったのが、広州出身の農民fで漢民族の洪秀全(こうしゅうぜん)である。
街頭で行われていた白人宣教師の「乱れた世を正せ」という布教に感化された洪秀全は、キリスト教に改宗して「滅満興漢(満州出身の女真族が建てた清国を滅ぼして、漢民族の国を建国する)」を唱え、人々に広く参画を呼びかけると、たちまち3万人を超える人民が集った。
清国を脅かす一大勢力を築き上げた洪秀全は、1851年に江西省で「太平天国」という革命政権を樹立して、清国軍との内戦に突入した。
清国政府は軍を向かわせたが、各所で太平天国軍に打ち破られた。
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1856年10月8日、清国官憲が広州湾に停泊中のアロー号を臨検したところ、阿片が発見されて、支那人の船員3人が逮捕されるという事件が起こった。
清国政府が阿片の輸入を認めていたのはイギリスのみで、それ以外の阿片の流入は厳しく取り締まっていたのである。
清国官憲の取った行動に何ら問題があったわけではない。
しかしイギリスが絶好の機会を見逃すはずがなかった。
広州領事ハリー・パークスは「清国官憲によるイギリス船籍アロー号の拿捕は南京条約に違反する。しかもアロー号に掲げられていたイギリス国旗を引きずり降ろした行為は、イギリスの国威を著しく踏みにじる行為である」として清国政府に抗議した。
清国政府は「アロー号へのイギリスの船籍登録期限はすでに切れている。またイギリス国旗は掲げられていなかった」と弁明したが、ハリー・パークスから報告を受けたイギリス政府は、清国政府の言い分を一切聞かずに戦線布告した(「アロー戦争」)。
イギリス艦隊は、広州、九龍、厦門、福州、寧波を艦砲射撃で破壊しながら北上していき、開戦から1年後の1857年12月29日には、機会を窺っていたフランスも清国に宣戦布告し、ベトナムに派兵してサイゴンを占領した。
翌1858年1月、イギリス軍が天津を占領した時点でロシアが仲裁にはいり、講和会議が持たれた。
席上、清国全権は英仏側から突きつけられた6つの講和条件、
一、賠償金を600万両の支払い(イギリスに400万両、フランスに200万両)
一、九龍半島のイギリスへの割譲
一、天津、漢口、九江、牛荘、煙台、淡水、台南、潮州など10港の開港
一、外国公使の北京駐在許可
一、外国人の清国内での旅行、通商の自由の認可
一、キリスト教布教の認可
をすべて受け入れて「天津条約」を終結させた。
これで戦争は収束するかに見えたが、さらなる混乱が起こった。
翌1859年6月17日、天津条約正式調印に向かう英仏使節団を乗せた艦艇に、清国軍の反動分子が砲撃してしまい、戦闘が再開してしまった。
翌1860年10月、英仏軍1万8000の兵が200隻を超える艦艇で天津港に殴り込み、上陸した4000人の陸兵が北京を占領した。
同年11月、英仏全権使節団は清国に「天津条約」の実施を確約させただけでなく、
一、英仏への賠償金を、天津条約で結んだ600万両から800万両に増額
一、アヘン貿易の許可
一、関税撤廃
一、天津港の開港
一、支那人労働者の出国許可
の5つの条件を上積みした「北京条約」の終結を清国政府に承諾させた。
「支那人労働者の出国許可」とあるが、有体(ありてい)に言えば、「支那人を奴隷船で出荷しても文句を言うな」ということである。
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洪秀全が「太平天国の乱」を起こしたのは、白人宣教師から腐敗し切った清朝の世を正すように吹き込まれたのがきっかけだが、この白人宣教師は、清国内を内乱で引っ掻き回して弱体化させるためにイギリスかフランスが潜入させた工作員だった可能性がある。
漢民族と女真族を争わせるため、太平天国軍を散々利用して清国を弱らせたあと、用済みになって潰したのかもしれない。
もしそうであるなら、実に見事な分断統治である。