じじぃの「人の死にざま_1713_副島・種臣(明治の政治家)」

奴隷船

SECRETS OF THE DEAD: Slave Ship Mutiny  KPBS
http://www.kpbs.org/news/2010/nov/08/secrets-dead-slave-ship-mutiny/
副島種臣 コトバンク より
副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)は、幕末・明治の政治家。
佐賀藩士で国学者枝吉忠左衛門の次男、副島氏の養子。通称は二郎、号を蒼海・一々学人等。明治政府の参与・制度事務局判事となり、政体書の起草や版籍奉還に尽力したが、のち政界を離れ、宮中顧問官・枢密顧問官として務めた。能書家として知られる。明治38年歿、78才。

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『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1996年発行
マリア・ルーズ号事件 外務卿の決断で清国人を解放 (一部抜粋しています)
1872年(明治5年)6月、南米ペルーの汽船マリア・ルーズ号が横浜に船体の修理のために入港しました。このとき、船いっぱいに詰め込まれていたのは奴隷にされた清国(今の中国)の人たちでした。
19世紀の中頃、アメリカのカリフォルニア州やオーストラリアで金鉱が発見されました。そこで働かせる労働力として、清国人が奴隷商人によって売買されてたのです。マリア・ルーズ号の船長はスペイン系のペルー人で、230人の清国人は、清国内部のポルトガル領であるマカオで乗せられました。
停泊中、木慶(もくけい)という名前の清国人は海に飛び込んで脱出し、湾内に同じく碇泊していたイギリス軍艦に泳ぎついて助けを求めました。わけをきくと、マリア・ルーズ号は奴隷船であり、船中での虐待にたえかねて逃げてきたというのです。英国士官は、英国公使ワトソンに連絡しました。敗走人は横浜の英国領事館の手をへて、神奈川県庁にひきわたされました。ところがマリア・ルーズ号の船長は、逃亡者の返還を要求しました。船中にいる清国人は移民であり、彼らを虐殺したことはないと主張しました。県庁は逃亡者をかえさざるをえませんでした。なぜでしょうか。
幕末に幕府が欧米列強と結んだ通称条約は、日本が圧倒的に不利な条件で結ばれた条約でした。
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ペルーと日本は条約を結んでいませんでしたが、列強の治外法権下にある日本が、ペルーと清国の間の紛争に干渉する資格があるのか、外交担当者は自信がありませんでした。
ワトソン公使は、日本側の処置に満足せず、マリア・ルーズ号が奴隷船でないか確かめに行きます。逃亡者は懲罰を受け、半死半生の目にあっていました。ワトソンはこの状態を副島種臣(そえじまたねおみ)外務卿に報告し、船長を再審問すべきことを勧告しました。
副島種臣外務卿は決心しました。「ペルーは治外法権を日本においてもっていない。日本国は、自国の主張によってこの事件を処理しなければならない。これは国際法上、合法である」
こうしてマリア・ルーズ号の清国人は解放されました。これもひとつのキッカケとなって、やがてマカオでの奴隷売買は消滅しました。明治新政府の心意気を示す、この勇気ある対応の結果、日本は清国から感謝されたばかりではありません。イギリスの信用を得て、条約改定に向けて大きく前進することができたのです。