じじぃの「人の死にざま_1191_G・フルベッキ」

グイド・フルベッキ - あのひと検索 SPYSEE
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フルベッキ考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_furubekkico.htm
グイド・フルベッキ ウィキペディアWikipedia)より
グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者、宣教師。
【生涯】
1830年にオランダ、ユトレヒト州のゼイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた。フルベッキ家はモラヴィア教会に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ。
長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。1863年文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。
1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキはお雇い教師として幕府に雇われることになった。
1866年(慶応2年)には、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩校で長崎にあった致遠館に招かれ、英語、政治、経済などについて講義をしている。この時の教え子には、副島種臣大隈重信伊藤博文大久保利通大木喬任加藤弘之、辻新次、岩倉具定、岩倉具経、江藤新平高杉晋作など、後の明治維新の元勲たちがいた。
1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。1870年10月から1873年まで大学南校の教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレーが文部省より督務館として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。
1898年(明治31年)3月10日昼頃、フルベッキは赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のために急死した。

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『近代日本の官僚』 清水 唯一朗/著 中公新書 2013年発行
立憲の時代――1870年代〜80年代 (一部抜粋しています)
1871(明治4)年11月12日、右大臣岩倉具視を大使とする遣外使節団が横浜港からアメリカへ向けて出立した。翌1872年5月に安政の五ヵ国条約が改定期を迎えることを見越して、使節団は日本に好意的なアメリカを皮切りに欧州各国を歴訪する。領事裁判権の撤廃を期待する日本側の交渉は不首尾に終わったが、多数の政府首脳が直に西洋の文物や制度に触れたことが、富国強兵に代表される政府の新しい方向性につながったことはよく知られている。
一方で、こうした知識と見聞を得ることが、条約改正に並ぶ使節団の目的として当初から示されていたことはあまり知られていない。いったん、時計の針を2年前に戻してみよう。
1869年3月、明治政府は1人のオランダ系アメリカ人を大学南校の教師をして長崎から招請した。グイド・フルベッキである。明治政府には大隈を筆頭に大久保、伊藤など・フルベッキ門下生が多くあり、その求めに応じての上京であった。貢進生をはじめ、大学南校の学生たちは、フルベッキの幅広い知識に大きな影響を受ける。
フルベッキのもとには学生だけでなく、新政府の政治家たちも多く訪ねて政体のあり方や国際法、教育をはじめ西洋文明について教えを請うた。戊辰戦争が終盤を迎え、公議所の開設、版籍奉還、二官六省制への移行など、新政府の機構整備が本格化しつつある時期である。彼らは制度知識を渇望していた。
政府の状況を理解したフルベッキは、西洋文明を日本に導入するためには、書物を通じた表面的なものではなく、日本人が自ら西洋に赴き、自らの目で見て、理解するべきと考えた。状況から2ヵ月後の5月、フルベッキはこの考えを遣外使節団派遣の建言にまとめ、大隈に託した。しかし、発足まもない新政府には多くの政治家を長期に派遣する余裕はなく、すぐにはこの建言は採用されなかった。
条件が整ったのは廃藩置県後である。1871年8月、自ら使節となり条約改正交渉に当たることを発議して、三条太政大臣の了解を取り付けたのは大隈であった。目的は条約改正と西洋父木の見聞である。外交の場で頭角を現した大隈であるが、実は海外経験はなかった。実際に欧米を見たいと言う気持ちは人一倍強かったのだろう。
この動きに対し、大隈の台頭を懸念した大久保らが阻止に動く、参議といえども、大隈は西郷や大久保とは格が違う、なにより、廃藩置県を断行したのは鹿児島と山口である。その一方で、実務能力では大隈が抜きん出ていることも衆目の一致するところであった。大隈周辺には開明派の少壮官僚が集まり、その影響力は無視できないものとなっていった。もしここで大隈が条約改正に成功すれば、政府内の勢力地図は大きく塗り変えられる。
大久保らは、三条を説得して大隈使節団を岩倉使節団に衣替えさせた。岩熊は外務卿(使節任命にあたって右大臣に昇任)であるから、指示の通った変更である。夢破れた大隈は、内政に活路を見出すことになる。

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