ラザフォード・オールコック - あのひと検索 SPYSEE
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19世紀イギリスさんが見た日本② ニコニコ動画
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Mount Fuji - Captivating the World [HD] 動画 YouTube
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ラザフォード・オールコックが描いた挿し絵 画像
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ラザフォード・オールコックが描いた挿し絵 画像
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冨士エコツアー・サービスのガイド日記: ■富士山に登った歴史上の人物 その2
http://blog.fuji-eco.com/article/61599375.html
世界ふしぎ発見! 「ラザフォード・オールコックの富士山の足跡を辿る」 2013年9月7日 TBS
【司会】草野仁 【ゲスト】出水麻衣、黒柳徹子、野々村真、野口健、大沢あかね、後藤輝基、春香クリスティーン 【ミステリーハンター】渡部陽一、中田あすみ
Q1.オールコックが旅の途中で食べて気に入ったものとは? スイカ
Q2.登山者が山頂の湧き水を使ってしたこととは? 墨に溶いて絵を描いた
Q3.オールコックは攘夷派の武士に襲撃されても、本国に日本をかばうような報告をしたのはなぜ? 旅の途中で熱海に立ち寄ったとき、愛犬が間欠泉の熱湯に触れて死んでしまった。熱海の人々が愛犬を埋葬したため。
Q4.オールコックが日本の日常品を集めたものがロンドン万博に展示された。渡欧使節団の侍がそれを見てがっかりしたものとは? わらじ
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ラザフォード・オールコック ウィキペディア(Wikipedia)より
サー・ラザフォード・オールコック(1809年5月 - 1897年11月2日)は、イギリスの医者、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務めた。著書に開国後の日本事情を紹介した、『大君の都』がある。
【生涯】
1809年、ロンドン西郊のイーリングで医者トーマス・オールコックの息子として生まれた。
アヘン戦争後の南京条約が清との間に締結され、清の5港が開港したため、1844年にラザフォードは福州領事に任命された。しばらくアモイで過ごした後、条約港福州での領事業務に携わった。不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、1846年に上海領事、1855年に広州領事に転じ、15年の長きにわたって中国に在勤した。この間、福州、上海における租界の発展に尽力し、広州領事時代にはアロー号戦争に遭遇した。
1858年、エルギン伯ジェームズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結され、1859年7月1日(安政6年6月2日)をもって長崎、神奈川、箱館の3港が開港することが約束された。ラザフォードは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された。
ラザフォードらの到着は事前に予告はされていなかったが、7月11日(6月12日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。
1859年9月から10月にかけて、もう一つの開港地である函館へ旅行。12月23日(安政6年11月30日)、特命全権公使に昇格。また1860年9月11日(万延元年7月27日)には富士山の登山(富士宮側)を行ったが、これは記録の残る中では外国人として初めてのことであった。熱海に旅行、このときの記念碑が市内の湯汲坂に現存している。
1862年、。5月30日にロンドンに着き、6月6日、5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印された。帰国中の6月19日、バス勲章を授与され、サーの称号を得た。また、この休暇中、ラザフォードは自著『大君の都』を出版する手配を終え、1863年にロンドンで出版した。
約2年の休暇の後、1864年(元治元年)春に日本に帰任したが、日本の様相は一変していた。帰国中に生麦事件とそれに対する報復としての薩英戦争が発生、長州藩による外国船砲撃のため、関門海峡は航行不能となるなど、日本国内の攘夷的傾向が強くなっていた。幕府も、攘夷派懐柔のためにヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣していた。ラザフォードはこれを打破しようとして、四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかったラッセル外相により帰国が命じられた。駐日公使はかつて清で彼の部下だったハリー・パークス(在任、1865 - 1883年)に引き継いだ。
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『大君の都―― 幕末日本滞在記 ―― (上)』 オールコック/著、山口光朔/翻訳 岩波文庫 1962年発行 (一部抜粋しています)
訳者まえがき
本著は、イギリスの初代駐日公使ラザフォード・オールコックが、1859年6月(安政6年5月)に総領事兼外交代表として来日以来、1862年3月(文久2年2月)に賜暇で帰国するまでの在日3年間の記録(The Capital of the Tycoon; A Narrative of a Three Years' Residence in Japan Rutherford Alcock)の全訳である。表題の「大君」とは徳川将軍のことで、幕末に用いられた称号である。
いうまでもなく、1859年から1862年にかけては、わが国の対外関係にとって多事多難な時期であり、しかもきたるべき明治維新をひかえて、国内はきわめて騒然としていた。すなわち、19世紀になると西洋諸国はいよいよ産業資本主義の段階に突入し、その急速な発達・発展によって世界市場の形成が具体化してきた。この積極的な意欲のまえには、しょせん東洋の孤立は許されるべくもなく、まず中国がアヘン戦争(1839-1842年)を契機として開国することをよぎなくされ、ついで日本が、かのアメリカのペリー提督の来航によって過去300年にわたる鎖国政策を放棄せしめられて、それに続く一連の修好通商条約の終結によって開国を決定的たらしめられた。
この間の事情は、『ペルリ提督日本遠征紀』や『ハリス日本滞在記』などからも明らかだ。とりわけ、『ハリス日本滞在記』は、わが国が極力反対しつつもついに世界史的必然のまえに屈して1858年(安政5年)に修好通商条約を結ばざるをえなかった経過をよく伝えている。だが残念なことに、その記録は1858年6月(安政5年4月)までしか残っていない。そこで、このオールコックの滞在記は、それに続く数年間のわが国の実状を詳細に伝えている点で貴重である。しかもその内容は、開国食後の諸問題をめぐる西洋諸国とわが国との外交交渉の経過や、条約終結の責任者である井伊大老の暗殺、外国人襲撃などをふくむ内外の諸事件や、その当時まだ在任中のハリス公使に代表されるアメリカの対日政策と微妙な点で方針を異にするイギリスのそれの変遷などを網羅している。それに、この著者がはやくから当時の国情のうちにその後にきたる明治維新への国内的変革ないし革命の萌芽があったことを洞察していたことは、きわめて興味ぶかい。それなればこそ、従来の幕末外国関係および明治維新の研究に本書が非常に活用されてきたわけだ。本署の記述が終わった時期以後のことは、実際に明治維新を日本で見聞したアーネスト・サトウの記録(『一外交官の見た明治維新』)があるから、それも読まれれば一層興味ぶかいことであろう。
ところで、本書の価値はそれだけではとどまらない。著者オールコックは富士登山(おそらく富士登山をしたのは彼がはじめてであろう)をはじめとして短年月のうちに日本各地をよく旅行し、幕末期の日本人の生活状態・産業・経済・宗教・文化などをもかなりよく観察して、それらにするどいメスをいれている。また、渡航前から日本の歴史を研究し、鎖国時代のケンペル、ツンベルグ、ティチングなどの書いた日本にかんする著作をよく読んでいて、それらから得た知識と日本の現実を対比させて、それらを批判するとともに、西洋人に対して日本を研究するためのある種の基準とでもいうべきものを提供している。
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第九章 日本人の言動
そのころ『二回目の日本旅行』と題する一冊の本が、わたしあてにイギリスから送られてきた。日本研究ということでは、あちこちに飛び散っているひじょうに多くのもみがらのなかから、まぎれこんだわずかばかりの小麦の穂を、幸運に助けられてはあちこちから苦心し骨を折って拾い集めているにすぎないわたしは、びっくりするようなできごとや、二度の経験をもった同じ分野の先輩の不思議な冒険談を、いささかうらやましく思いつつ驚いて読んだ。最初に、この幸運な見物人であり、さまざまの不思議を演ずる人が、かって日本にいたこと――想像上だけではなくて肉体的にも――があったかどうかは、わたしにはおよそ疑わしいように思えた。もしいたことがあるとすれば、わたしは失望のうちにペンをおくべきだと思った。なぜなら、日本滞在の期間が100年も延長される(そんなことになってもらっては困るが)としても、この半分も驚くべき話はできそうになかったからだ。肉としては豚肉と固い家禽、植物としては米、牛乳の代わりに卵(バターと牛乳はともに、この国にはない珍味だ)、それにときとしてハトの一口料理などは、日本人ないし中国人の料理人――能力と本能の点では双生児の兄弟だ――の野蛮きわまるうでまえでも、生命をささえるには足るかも知れない。しかし健康ということから考えると、これではいつか行きづまるにちがいないとわたしは確信する。牛肉と羊肉をすこしも食べないでいると、イギリス人の体質はいつか重大な支障をきたすにちがいない。われわれは海外にきわめて多くの属領を有する小さな島国の国民であるがゆえに、当然はるかなる東洋の土に覇権されて、長いあいだ故郷とのいっさいのつながりを絶たれ、流刑にも似た状態におかれるようなこともありうるというふうに考えるように育てられている。年々何千、何万という人々を両親のもとから巣立たせる仮借なき必然に、われわれがなんと冷静にしたがっていることか、そして知友や親戚とも離れ、社会的・知的な交際を奪われても、いかに耐え忍んでゆくことか、じつに驚くべきものがある。ところで、読者は、何ヵ月ないし何年にもわたって牛肉や羊肉を味わえないということがどんなものであるかを、切実に感じたことがあるかどうか。そういう目にあったことのない人びとには、このような状態のもとではとうてい健全な精神を保持することは不可能だといいたい。
あわれにもノーフォーク島(ニュージーランドとニューカレドニアのあいだにある島)かポタニー湾(オーストラリアの東南部にある湾)あたりに永遠に追放された囚人の「自然の」寿命はひどく短いことが想像されるが、日本にいるアングロサクソン人の「自然の」寿命というものもけっして長いものであるはずがないことはたしかだ。その結果として(というのは、これはわたしの反省からえた真実の教訓なのだが)、その本(「二回目の日本旅行」)の著者が訪れたすべての場所で見かけたと思われる面白い、奇妙な、また驚くべきことがらの、ほんの一部を見るに足りるほど長いあいだわたしが長生きするということは、とうていありえない気がする。旅人が旅行記を書いてそれを出版できれば、なんと幸福なことか。わたしは、日本人のように特殊な境遇にある国民の性格と制度とをはっきり洞察しようとする普通の人の目にはいるような日常のわずかばかりのつまらぬことがらをあからさまにのぼようとしているにすぎない。わたしの望んでいるのはただたんに、イギリスの大衆に正しい知識を与えるということだけだ。
16世紀の数々の地理上の大発見によって、ヨーロッパ人ははじめて日本の海岸に到着したのだが、それ以前には、日本は孤立していた。だがそれにもまして、長崎のオランダ人と中国人をのぞいて、呪われた外国人のすべてが撲殺されるか追い出されるかした17世紀以来のかれらの長い孤立のために、この国民は特異な位置におかれ、同時代の諸民族・諸国民によって世界中でなしとげられている進歩を知って影響されるということがほとんどないような、特殊な文明の発達を示すことになったのである。しかしそれは、一国の地質調査のようなものだ。あちこちの下の地層が露出して、表面から見ることができるかもしれないし、あるいは地すべりのために偶然にその岩層が見られるかも知れない。だが、全体を理解するカギとなる主要な興味の対象というのは、上に積み重なっている層をひとつひとつ掘りさげて調査する念入りな労働によってはじめてえられるものだ。同様に、国民性や制度ないし文明の状態を研究するさいにも、下に横たわったものに有用な徴候がいくつか表面にも横たわっている。ところがまたこの表面のしるしは、ただ表面だけを踏査する者も誤らせることがひじょうに多い。それゆえに、わたしは、いまからのべることには「誤りや手ぬかり」があるということをはっきりことわった上で、できるだけ価値のあることを述べたいと思う。
さし当たって、すでに刊行されている旅行者たちの物語や、過去数代の顕著な事件をありのまま正確にのべたと称する日本の記録をも参照しながら、わたしじしんがこの目で見たかぎりの日本人の性格と習慣のいくつかの特徴だけをのべてみたいと思う。前オランダ商館長で、長らく長崎に滞在していたティチング氏は、賞賛にあたいする勤勉さで、『日本の君主たる将軍の王朝下のおける回想と逸話』(1829年刊)という題のもとに、その特徴のいくつかを集約した。そのなかの多くのものは、この地震国(日本)で現在行われている思考と行為の習慣に光明を投げかけるものと思われる。ところで、いささか余談になるが、だれでもそのうちになれることとは思うが、地震の強い衝撃になれるまでには、肉体的、および精神的にははっきりとその攪乱的な影響をこうむるものだ。
いまではわたしは。この地下の大釜からの訪問者(地震)と知り合いになったわけだが、普通は人とつき合えば親愛か軽蔑のいずれかの感情が生ずるものだが、この訪問者については、わたしはそのいずれをもいだくようになったとはいいがたいように思う。
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