じじぃの「人の死にざま_858_アーネスト・サトウ」

アーネスト・サトウ - あのひと検索 SPYSEE
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【遙か5】アーネスト・サトウで聖域-Sanctuary ニコニコ動画
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On the Creation of a National Collection of Japanese Ceramics in the 1870s 動画 YouTube
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アーネスト・サトウの生涯 −その日記と手紙より−:雄松堂書店
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アーネスト・サトウ 自筆書 画像
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アーネスト・サトウ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。息子は植物学者の武田久吉
【生涯】
1843年、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人(当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン)の父デーヴィッド、イギリス人の母マーガレットの三男としてロンドンで生まれた。サトー家は非国教徒でルーテル派(プロテスタント)の宗教心あつい家柄であった。ミル・ヒル・スクールからユニヴァーシティ・カレッジに進学、ローレンス・オリファントの著作「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れ、1861年イギリス外務省(領事部門)に通訳生として入省、駐日公使オールコックの意見により清国北京で漢字学習に従事する。
1862年9月8日(文久2年8月15日)、英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。
1863年8月、生麦事件・第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かった。サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発した。サトウ自身も薩摩藩船青鷹丸の拿捕に立会ったが(その後の略奪にも加わっている)、その際五代友厚寺島宗則松木弘安)が捕虜となっている。開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃する。
1864年、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任した駐日公使ラザフォード・オールコックからサトウの昇進に尽力することを約されたので、引き続き日本に留まることを決意した。オールコックはサトウを事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなった。また、ウィリスと同居し親交を深めた。
1871年、鹿児島から上京してきた西郷隆盛と会った。代理公使アダムズらと箱根・江ノ島に旅行した。廃藩置県後、代理公使アダムズと岩倉具視との会談で通訳をした(議題は、廃藩置県断行の状況や農民に対する課税問題、神仏分離令など)。
1900年-1906年、駐清公使として北京に滞在、義和団の乱の後始末を付け、日露戦争を見届けた。北京から帰国の途上、日本に立ち寄った。
1906年、枢密院顧問官。1907年、第2回ハーグ平和会議に英国代表次席公使。引退後はイングランド南西部デヴォン州に隠居し、著述に従事。キリシタン版研究の先駆けとなって、研究書を刊行するなどし、のちの南蛮ブームに影響を与えた。駐日英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたものである。
【姓名】
「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、日本の姓とは関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」と日本式に姓を名乗った。本人も自らの姓が日本人になじみやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことが、日本人との交流に大きなメリットになったと言っていたという。
【家族】
私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期の日本滞在時に武田兼を内妻とし3人の子をもうけた。兼(カネ)とは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げる。また、最晩年は孤独に耐えかね「家族」の居る日本に移住しようとしたが、病に倒れ果たせなかった。
【サトウの給与】
サトウは通訳官としての年俸が当初僅か400ポンドであったと述べている(自著『一外交官の見た明治維新』)。当時の為替相場は1ポンド=2.5両であったため、年俸は1000両ということになる(なお近藤勇は年俸に換算して480両)。万延小判の発行により、1両の価値は従来の1/3程度になっていたとは言え、少ない額ではない。

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『一外交官の見た明治維新 (上)』 アーネスト・サトウ/著、坂田精一/翻訳 岩波文庫 1960年発行 (一部抜粋しています)
訳者の言葉
サトウは、明治維新の前後を通じ25年も日本に滞在した人で、青年外交官として日本に赴任してから、風雲の急な幕末の政情の中を縦横に活躍、2度まで実戦に参加して砲煙弾雨の中をくぐり、また攘夷の白刃にねらわれて危うく命をまぬがれたりした。外国人でありながら、明治維新の血なまぐさい事件や多くの困難な紛争を、身をもって体験してきたのである。
それに、幕末から根維持維新にかけての日本の歴史は、周知のように対外関係から始まり、たえず、対外関係をもとにして発展してきたのであるから、サトウのような立場にあった人でなければわからぬこともあるし、また見聞できなかったこともずいぶん多いと思う。
当時、西郷、木戸、伊藤のような人々をはじめとして、倒幕の志士や反幕府的な大名たち、また他方閣老をはじめとする幕府の高官達が、慇懃(いんぎん)をつくして、サトウの歓心を買うことにつとめたことは、第二次大戦直後の日本の政情にも一脈通ずるものがあり、その動向が明治維持維新に大きく影響したことも否定できない。
その点で、この著者は日本の近代史、ことに明治維新史の研究家にとって貴重な史料であるが、そればかりではない。当時の日本の風物や、人情、風俗、習慣などが、相次ぐ事件のエピソードにからんで生き生きと描写してあるし、また機知にとんだ奇行や紅毛膝栗毛(こうもうひざくりげ)的なユーモラスな道中記なども織りこまれており、斬首刑、腹切などの場面、各藩の武士気質、維新志士の談論、風格、サトウをめぐる両派要人の暗躍なども、作りものでないだけに興味が深い。
このサトウの著書『日本にいおける一外交官』は、終戦前は(25年もの長い間)、わが国では禁書として扱われてきた。
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第十八章 陸路、大坂から江戸へ
日本の国内は、数世紀の間すべてのヨーロッパ人に対して鎖(とざ)されていたが、長崎のオランダ商館長だけは例外であった。オランダ商館長は、一定の時期ごとに陸路江戸へ上って将軍に敬意を表し、将軍と閣老に高価な贈り物をするのが慣例となっていた。これらの捧(ささ)げ物をする使者についての最も興味ある記事は、ケンペルの書いた本の中に見られるだろう。ところが新条約の(訳注 1858年=安政5年の修好通商条約)には、諸外国の外交代表に日本全国の旅行権を与えるという1ヵ条が加えられた。ラザフォード・オールコック卿がその著書「大君の宮廷と首都」(Court and Capital of Tycoon)の中で詳述しているように、卿は数年前にすでにこの旅行の特権を行使したのであった。しかし、オールコック卿のこの旅行記が、それ以後の旅行者に案内書として大いに役立ったとは言えない。
ところで、実に日本人は大の旅行好きである。本屋の店頭には、宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか旅行者の必要な事柄が細かに書いた旅行案内の印刷物がたくさん書いてある。それに、相当よい地図も容易に手にはいる。精密な比例で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。
そのほか、マレー(Murray)(訳注 イギリスの有名な出版業者 Murrayのことか)に親しんでいるイギリス人が欲するような、伝説的、または歴史的な、いろいろの民間説話をのせた見事な絵入りの東海道案内記もあった。日本の本州には2本の大きな街道があって、それが東西の2つの都をつないでいる。その1つは中山道、すなわち山の中を通っている街道で、その名のように中部の国々を貫通している。もう1つは東海道、すなわち東方の海に沿っている街道で、これは通行のできるかぎり海岸伝いに通っている。この名称は街道の初めからの名前ではなく、元来はこの街道の通っている地域の行政区画上の名前なのだが、実際には同じように使われている、日本第1の街道である。宿屋の設備も一番よいと、この国の役人が私にすすめてくれたのは、この東海道であった。徳川三代将軍(訳注 家光)が参勤交代の制度をつくって以来、大きな街道は日本内地の交通の重要な手段となった。人夫や駄馬(だば)を供給するために、数マイルごとに宿場があり、大名や政府高官の止まる本陣という官用宿舎がどの宿場にも1、2軒はあった。
この本陣の付近には、大名の家臣や旅商人などの止まる普通の旅館や料亭などがたくさんあった。東海道に沿って領地を持っている大名はもちろんのことだが、京都以西のあらゆる大名にとっても、この街道は公認の通路となっていたのである。それに、毎年伊勢神宮にお参りする大勢の人々にとっても、東海道は主要な通路になっており、そのほか、数多くの有名な寺院の参詣者もこの街道を通るのである。
そこで、あらゆる点から見て、東海道は日本国中の道路の中で最も往来の頻繁(ひんぱん)な、そして最も重要な道路であった。日本の色刷りの版画を蒐集(しゅうしゅう)している人々の中で、東海道の風物を描いた挿絵(さしえ)のある数多くのおもしろい連続物(シリーズ)を知らない者があろうか。これらの絵には、日本人の生活がとても真に迫まるように描かれている。日本の小説の中で最も有名なものの1つに、2人連れの愉快な男の、江戸から京都に上る道中の珍談を扱ったもの(訳注 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」)があるし、また東海道五十三次の宿場表は、日本の子供たちが読み書きを習う際に教えこまれる第1課の1つになっていた。途中の有名な景色はいうまでもなく、歴史上、伝説上の連想によって、この東海道が日本人の空想の中に占めている地位は、ライン河がその昔イギリス人旅行者の心を捕えていたのと等しいものがある。今ではローレライの巌(いわ)にトンネルができて、無頓着な旅行者の群れがこの大河の岸を鉄道で数時間のうちに疾駆してしまうのであるが、昔は4頭だての馬車で、もったいらしく「やる」のが流行したものだ。どんな地図で細心に研究しようとしても、徒歩で実地に研究するにまさる地理学の勉強法はない。徒歩によれば、愉快、疲労、天候などの、多くの連想を伴うことにより、地政学上のきわめて些細な事までが心に残って離れないものだ。また、歴史の研究者に対しては、戦争のいろいろな変遷をも理解させてくれる。
日本は、数世紀の内乱から特殊な政治組織が生まれた国であるから、国内の各地方を丹念に調べれば調べるほど、当時の敵国同士が互いに攻め合った戦術上の問題などのついて、正しく理解がゆくというものだ。私は、何かこうした考えから、陸路をとって江戸へ帰ることを長官に許してもらおうと決心したわけではない。日本のあらゆる事物に対するどん欲な好奇心、冒険心、あるいは軍艦内の生活に対する嫌悪の情が実際の動機だったのだが。そして、多分その最後のものが一番強い原因だったと思う。カレーからドーヴァーまで行くのに、船なら1時間と10分以上はかからぬのだが、できたら1日がかりで歩いて行った方が、船中で荒天に身をまかせるよりもよいというのは、多数の人々が思いを同じくするところであろう。
ワーグマンと私は、だいぶ日本食にも慣れてきたので、食料は何1つ携帯せず、またナイフ、フォーク、洗指針、テーブル・ナプキンなどを持って行かぬことにした。馬は手に入らなかったので、引戸駕籠(ひきどかご)という役人用の駕籠の中古を2挺(ちょう)買って、これを修繕させた。1挺の値段が1分銀32枚、すなわち、4ポンドもしない小額だった。棒は松材の長いやつで、上品な言葉で桐棒(訳注 切棒)と称せられるものだった。綿を厚く詰めた綿緞子(どんす)の敷き布団をしき、ちょうど両脚を楽に組んですわれるだけの余裕があった。前に面した窓の上に小さな棚があり、窓の下にテーブルの用を足す小さい折り板がついていた。また、引き戸には、寒気をふせぐために障子戸をつけた窓と、換気の際に塵埃(じんあい)の入らぬように紗(しゃ)のにおおいをした、もう1つの窓がついていた。雨天の時には、細い竹で作った簾(すだれ)が窓におろされた。また、駕籠の胴体は油紙のおおいで包まれるようになっているが、駕籠の中から外がのぞけるように、これに小さな穴がついており、また油紙の垂(た)れが外側へ張り出されていた。しかし、こうした装備は、雨の降りつづく日に用いられるだけだった。
われわれの旅行の場合には、各自が両掛と称する衣類を入れる1対の表方形の柳細工の籠を用意し、一人の男がそれを黒い棒の両端につるして、肩に担いで運んだ。
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