じじぃの「人の死にざま_1126_W・ウィリス」

ウィリス、高木に西洋医学を説く 画像
http://www.city.kagoshima.lg.jp/var/rev0/0045/7229/DSCF2291.JPG
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このウイリアム・ウィリスが在日中に書き残した長兄への手紙や上司への報告類など約700点すべてを日本語に翻訳した900頁に及ぶ大著「幕末維新を駆け抜けた英国人医師ウイリアム・ウィリス−蘇るウイリアム・ウィリス文書」(創泉堂出版刊、14,000円)が昨年末に刊行された。「ウイリアム・ウィリス文書」は、同時期にわが国で活躍した英国人外交官アーネスト・サトウの研究家であった萩原延壽氏が、アーネスト・サトウの日記からその存在を知り、それを大切に保存していたウイリアム・ウィリスの甥の息女から譲り受けて、1976年に日本への里帰りが実現したものである。
http://www.y-okabe.org/writings/post_76.html
ウィリアム・ウィリス ウィキペディアWikipedia)より
ウィリアム・ウィリス(William Willis)は、幕末から明治維新にかけて日本での医療活動に従事したイギリス人医師(医学博士)、お雇い外国人。
【生涯】
1837年にアイルランドで生まれ、スコットランドエディンバラ大学で医学を学んだ。1861年箱館領事館の第二補佐官兼医官に任用され、江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、第二次東禅寺事件に遭遇し、生麦事件の現場を目撃した。ハリー・パークスの下で医官として働いた。
1866年、医官を務めるかたわら首席補佐官兼会計官に昇進。公使パークスの鹿児島・下関・宇和島訪問に同行、生麦事件をおこした島津久光に会い、強い反感をもった。横浜で大火に遭遇。
1867年、パークス夫妻とともに富士山に登った。兵庫開港準備に伴う人事で江戸副領事・横浜副領事に昇進した。
1868年、兵庫領事マイバーグ急死のために大坂副領事代理を兼任した。鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜大坂城脱出を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。戦病傷者治療という名目でサトウとともに大坂・京都に行き、ミットフォードとともに前土佐藩山内容堂を診察し堺事件に関する謝罪を各国公使に伝達することを依頼された。パークス襲撃事件の負傷者を治療した。江戸に戻った後に横浜で彰義隊討伐作戦の負傷兵などを治療した。北越戦争での戦傷者の治療にあたるため越後路を旅行した。江戸(東京)副領事に復帰。
1869年、新政府の要請でイギリス外務省員の身分をもったまま東京医学校の教授に就任、大病院の指導にあたった。
1877年、西南戦争勃発を機に東京に戻るまで鹿児島への医学の普及に貢献した。この時ウィリスの下で学んだ中に高木兼寛がいる。
1881年イングランドに戻り、親友のアーネスト・サトウと同時期にシャムのバンコクのイギリス公使館で働いた後、1892年に帰国した。

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『かくもみごとな日本人』 林望/著 光文社 2009年発行
医道明らかに ウィリアム・ウィリス(1837 〜 1894) (一部抜粋しています)
幕末維新のイギリス外交部の一員として、ニール、オールコック、パークスなど公使に仕えた医師があった。ウィリアム・ウィリスというアイルランド人がその人である。
彼は単に医師として働いただけでなく、公使館の書記官や会計官をも兼ねて勤勉そのものの生活を送り、後には副領事にまで昇進した。アーネスト・サトウはこの医師外交官の親友であり、一時ウィリスと同じ部屋に住んでいたこともあるのだが、そのサトウが、著書『一外交官の見た明治維新』のなかで述べているところを見ると、ともかくこの人は日常にも職務にも、いわば実直が福を着て歩いているような人柄であったらしく、誰もみな彼の診察治療を受けた人はその温かで真面目な接し方に大きな感銘を受けたものであったらしい。
慶応4年2月、パークス公使以下の英外交団が、参内の途中、刺客に襲われて、護衛の兵士らが負傷するという事件が出来(しゅったい)したことがある。その刺客の一名は直ちに切り伏せられたが、もう一名は負傷しつつも一命をとりとめた。その時、ウィリスはその負傷した刺客の手当てに当たったのだが、実はその男は、外国人医師によって王城の血が穢(けが)されたことを憤って、ほかならぬウィリスを狙ったものであった。
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暗殺者を、殺される筈であったウィリスは一生懸命治療したばかりでなく、その治療の間、なにくれとなく彼と話しをしたらしい。
すると、この刺客の武士までが、彼の温情溢(あふ)れる態度にすっかり心を許して親しみを表したということが、元英国大使・コータッツィ卿の『ある英国医師の幕末維新』に伝えられているのも、いかにもその美しい人柄が偲ばれる好話柄(こうわへい)と言うべきである。
彼はこの動乱のさなか、鳥羽伏見の戦に傷ついた薩摩の兵を助け、あるいは新潟・会津に赴いて幕軍の士にも懇篤(こんとく)な治療を施し、路傍に傷ついた貧しい老女を救い、かと思えば土佐藩主の病を医(いや)したこともあった。
まさに実直無比に彼は医道を実践して已(や)まなかったのである。

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