じじぃの「人の死にざま_1353_赤松・小三郎」

赤松小三郎

赤松小三郎 ウィキペディアWikipedia)より
赤松 小三郎(あかまつ こさぶろう、1831 - 1867)は、幕末期の兵学者・政治思想家。号は宇宙堂。
【民主的議会政治の提言】
慶応3年(1867年)5月17日には越前福井藩前藩主・松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」という建白書を提出した。
また同じく5月に同様の建白書を薩摩藩島津久光にも提出している。

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文藝春秋 2014年6月号
船中八策」に先んじた男 宮原安春(ノンフィクション作家) (一部抜粋しています)
幕末に佐久間象山坂本龍馬など攘夷派浪士によって暗殺された志士が多い。けれども優れた考えを持ちながらその名前さえ人々に記憶されることなく、むしろ明治政府によって存在さえも消されてしまった気配の男がいる。真田幸村ゆかりの信州上田藩の藩士・赤松小三郎である。
赤松の名前が出てくる史料は僅かである。越前藩の藩主・松平慶永(春獄)の業績を記録した「続再夢紀事」に赤松が持参した「御改正之一二端奉申上候口上書」(通称「建白七策」)が引用されている。これは「天幕御合体、諸藩一和」で始まる公式合体から論じられて、内閣を総理、財政、外交、軍事、司法、税務の閣老で構成する。上下二局の議政局を設けて、上局は諸侯、旗本から選挙によって30人を選び、下局は国民のなかから130人が選挙によって選ばれるというものだった。「もし天朝にて御許容なき箇条は議政局で再議し……天朝に建白して議政局により国中に布告すべし」と書かれている。これはアメリ憲法をモデルとして権力者の独裁を防ぎ、行政府よりも議会を優先させている。
さらに、主要地に大学を設置し、「国中の人民平等」に「人々其の性に準じ充分を尽くさせ候事」と論じ、貨幣を鋳造して世界の通貨に対応することを提唱。軍制を定め、アジア人はヨーロッパ人に肉体が劣っているため、「美食・美服」まで提唱した。
この「建白七策」が提唱されたのは慶應3(1867)年5月17日。前年の福沢諭吉の「西洋事情」や英国公使館のアーネスト・サトウが書いた「英国策論」などの影響も感じられるけれども、幕藩体制の封建主義の社会にあって一挙に民主主義をめざした国家のグランドプランといえる。その1ヵ月後の6月15日に、坂本龍馬の「船中八策」が起草されている。これは長文の「建白七策」を下敷きにしてスローガン的に8項目にまとめたと言われている。
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だが、「建白七策」の4ヵ月後の9月3日、京の東洞院魚棚で何者かに数え37歳で暗殺された、この非業の最期を追悼するために薩摩藩は三百両を贈って弔慰を示し、金戒光明寺に墓を建てた。その碑文には「緑林の害に遭いて死す」と薩摩藩の門弟が書いた。「緑林の害」とは盗賊殺人にあったことを意味する。明らかに暗殺を隠蔽する文面にしていたのだ。