じじぃの「歴史・思想_647_近代史の教訓・岩倉具視」

【幕末】205 明治新政府成立 王政復古の大号令と小御所会議【日本史】

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岩倉具視(いわくらともみ)

デジタル版 日本人名大辞典+Plus より
1825-1883 幕末-明治時代の政治家。
文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をとなえて和宮(かずのみや)降嫁をすすめ,尊攘(そんじょう)派によって一時宮中を追われる。
薩長(さっちょう)倒幕派とむすんで慶応3年王政復古を実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。
明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲法制定の方針をさだめた。
華族の財産保護を目的とした第十五銀行,華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど,華族の地位擁護につとめた。公爵。明治16年7月20日死去。59歳。京都出身。

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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第3章 岩倉具視大久保利通――近代日本を生み出すための謀略 より

歴史は「会議」で決まる

日本の近代史を告げる1番の「決定的な出来事」として、私は迷うことなく、慶応3年(1867)12月9日の一連の政変劇、すなわち天皇を中心とする新政府の樹立を宣言した「王政復古の大号令」と、徳川慶喜(よしのぶ)の「辞官納地」(官位の辞任と徳川家の領地の返上を要求すること)を決めた「小御所会議」を挙げたいと思います。
この政変で、文字どおり獅子奮迅の働きをみせたのが、公家の岩倉具視(文政8年 1852 生まれ)と薩摩藩士の大久保利通天保元年 1830 生まれ)でした。
2ヵ月前の10月14日、徳川幕府最後の将軍慶喜から、朝廷に対し「大政奉還」の上表が行なわれました(翌日、受理)。「大政奉還」とは、字義どおりにいえば、将軍自ら統治権を朝廷に返上するということです。ところが、慶喜の思惑は別にありました。
すなわち、「大政奉還」は、あくまでかたちの上だけのことであり、実は、薩長など反徳川陣営から倒幕の名目を奪うための「政略的手段」にすぎなかったのです。慶喜は、これまで統治の経験に乏しく、財政基盤も軍事力ももたない朝廷に一国の政権を担当できる能力があるわけがなく、やがて再び徳川に政権を委ねるしかない、と踏んでいました。依然として徳川家がもっていた全国の総石高の4分の1に及ぶ400万石の領地と、フランスの支援によって近代化を進めていた軍事力を背景に、来たるべき新体制においては、実質的には強化された徳川家の支配によるフランス流の「徳川絶対王政慶喜は行なおうとしていたのです。当然ながら、そこでの天皇はいわば「お飾り」にすぎませんでした。

こうした「戦略的手段」としての「大政奉還」に対し、「そうはさせじ」と、決死の思いを込めて大久保や岩倉がぶつけたのが、ほかならぬ「王政復古」だったのです。

それは旧来の幕藩体制門閥制度に縛られて、一部の武士階級の専制下にあった日本を根底から変革し、天皇を中心とするまったく新しい「近代国民国家」を築いていこうとするものでした。吉田松陰と同世代の大久保や岩倉も、松陰同様、燃えるような「尊王攘夷」の理念と戦略を併せ持っていました。
日本史の一大「結節点」である幕末維新の剣ヶ峰に立った日本。本章ではその最終局面となる「慶応3年」に起こった決定的な「政治の戦い」に焦点を当て、そこで岩倉と大久保の2人が果たした日本史的なスケールでの大きな役割と、その意味について見ていきたいと思います。

「政敵」後藤象二郎の登場

そのとき(薩長同盟で倒幕に向かった)、朝廷工作を任された大久保利通が最も頼りにした男こそ、公家の岩倉具視でした。折しも岩倉は、慶応3年(1867)3月29日、それまでの約4年半もの長きにわたる追放処分が解除され、まだ洛中の居住は許されなかったものの、ようやく入京が許される身になっていました。同年1月の明治天皇の即位によって公卿の政治犯が赦免され、岩倉も列に連なったのですが、大久保はこの岩倉を担ぎ上げて、朝廷工作に邁進していくことになります。
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このように岩倉という人は、その時々の時勢に応じて最も必要とされる「政略」をあくなき執念で追い求めるという点で、権力政治家の面目躍如たるものがあります。しかし同時に、岩倉は、今に残っている彼の建白書「済時策」や「全国合同策」からも明らかなように、一貫して王政復古による日本統一を理想として抱きつづけてきた人物であったことを忘れてはならないでしょう。
このとき、こうした岩倉ら討幕派の動きを見て危機感を強めたのが、土佐藩氏の後藤象二郎天保9年 1838 生まれ)でした。彼は薩長の武力討幕の企てを阻止する方法を必死に探るのですが、土佐を脱藩していた坂本龍馬天保6年 1835 生まれ)から、「大政奉還」という道があることを教えられ、それを自分の考えとして山内容堂に伝えたといわれます。
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こうなると、岩倉を除く公卿や薩長を除く諸侯は、「大政奉還」の名目に満足してそれ以上の変革を望まなくなります。こうして「討幕の密勅」も、いったん不発に終わったかたちとなりました。そしてその後、政局は土佐藩などが主導する「公儀政体論」が一時的に台頭してくるのでした。
それは「雄藩連合」の構想に基づく、徳川を含む連合政権論ですが、実質は将軍(慶喜)を議長とする諸侯会議の拡大版で、徳川家の主導権を認める内容でした。事態はまさに土佐、つまり山内容堂や後藤が望んだとおりに推移し、歴史の車輪は再び逆転しはじめます。あくまで武力討幕をめざす岩倉や薩長両藩は、まったく孤立したかの感があったのです。

「日本の1番長い日」

しかし、慶応3年(1867)の「維新回天」は、ここからが本番だったのです。
特に討幕派にとって決定的に大きかったのは、12月8日、まさに「王政復古」を目前にした絶妙のタイミングで岩倉の洛中帰住が許され、参内(さんだい)、つまり「御前会議」への列席が可能となったことです。つづく15日には、出兵の手はずを整えるために一時薩摩に帰っていた大久保が帰京します。こうして、岩倉と大久保という2人の主役が京の都の地に出揃ったところで、いよいよ運命の12月9日を迎えます。すなわち、10月の岩倉と大久保の密談のシナリオに沿って、慶喜から一切の権力を剥奪、天皇を中心とする新政府を築くための「王政復古」のクーデター結構の日が、12月9日となったのです。
西郷が指揮する薩摩軍を主力とするクーデター部隊が御所の周囲を固める中、御所に参内した岩倉は、満15歳の明治天皇の御前で決然と「王政復古」の断行を奏上します。かくて明治天皇は、岩倉が大久保や玉松操らと作成した天皇の詔(みことのり)、「王政復古の大号令」を発布されることになりました。
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ところで、日本近代史の中で、われわれはこれとどこか似たような光景を思い出さないでしょうか。昭和20年(1945)8月9日、深夜に及んだ「御前会議」です。その席で天皇の「みこころ」を受けた鈴木貫太郎首相が、まさに身体を張って日本を終戦へと導いた、あの光景です。この国の未来を決定的にかたちづけたという点で、慶応3年(1867)12月9日は、昭和20年8月9日と同じく、「日本の1番長い日」だったといえるのではないでしょうか。