じじぃの「人の死にざま_385_板垣・退助」

板垣退助 - あのひと検索 SPYSEE
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板垣退助生誕地 動画 YouTube
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板垣退助 ウィキペディアWikipedia) より
板垣退助は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は元は通称で、諱は初め正躬(まさみ)。のち正形(まさかた)と改める。号は無形(むけい)と号した。
自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。また没後も、日本の民主政治の草分けとして人気が高く、大東亜戦争後、50銭政府紙幣日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。
【幕末】
藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。
倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張。土佐藩大政奉還論に傾く中、薩摩の西郷らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩後藤象二郎の主導により、薩土盟約を締結。しかし両藩の思惑の違いにより短期間に破綻。後藤・容堂主導により大政奉還の建白がなされ、慶喜がこれを受け入れるが、薩摩藩を中心とした討幕派はこれに飽きたらず、王政復古の大号令に伴う小御所会議で慶喜の辞官納地を決定。反撥する旧幕府側の兵により鳥羽伏見の戦いが勃発する。戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として従軍した。天領(旧幕府領)である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の後継であるとの家伝を示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏を名乗った。然して、この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新撰組を撃破した。
さらに、東北戦争では、仙台藩会津藩などの攻略を行った。
【明治政府の要職を歴任】
明治2年(1869年)に参与となる。これは新政府において、木戸孝允長州藩)、西郷隆盛薩摩藩)、大隈重信佐賀藩)と共に、“第一期”での参与就任であった。すなわち板垣ら4人は、「薩長土肥」の藩閥新政府における筆頭藩士である。明治3年(1870年)に高知藩の大参事、明治4年1871年)に参議となる。
明治6年1873年)に征韓論を主張するが欧米視察から帰国した岩倉具視らの欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は真っ二つに分裂。板垣は西郷隆盛らとともに下野した。(明治六年政変)
自由民権運動
明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
明治14年1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。
全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した(岐阜事件)。なお、このとき板垣を診察した医者は後藤新平であった。板垣は後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったという。後藤は後に、板垣の希望通り、政治家となった。
その際、板垣が述べたことは、広く人々に、そして後世にまで伝わることになった。板垣は襲われた後、起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った。 やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
明治23年(1890年)、帝国議会開設後、旧自由党立憲自由党として再興し、翌年、自由党に改称、総理に就任した。
【評価】
中江兆民は「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としては資質に欠けるところはあっても、個人としての美しい徳を持っていたことでは近世の偉人である」と評価している。
・板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残したが、彼自身は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさがなく(端的に言えば「いい人」)、清濁合わせ呑むことが要求される政治家としては必ずしも有能だったとは言えない。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
7月16日−板垣退助 (政治家)
土佐藩士だった英六の長男としてこの世に生を受けた板垣退助は名を裏切るかのように前へ、前へと突き進む男だった。
倒幕派ではあったが征韓論に敗れ、断腸の思いで野に下った。しかし、下りっ放しの退助ではない。1874年、江藤晋平らと民選議員設立のための建白書を出している。そして、地元高知にて自由民権運動を旗揚げする。
1914年、自由党の総裁となる。そして翌年、岐阜で暴漢に襲われた時にあの名セリフを叫んだという。
「板垣死すとも自由は死せず」 ある政治家が私に言ったことがある。「政治家は暴漢に襲われて死ぬというのが似合った死にざまってもんだよ」
その後、伊藤初代内閣の内務大臣に任命された板垣だが、彼もまた明治維新の時代の中、新生日本への踏み出す礎となった一人であることはいうまでもないことだろう。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
板垣退助 (1837-1919) 82歳で死亡。 (一部抜粋しています)
板垣が、明治15年自由党総裁として刺されたとき、「板垣死すとも自由は死せず」とさけんだという「伝説」を残して死んでいたら、あるいは明治最大の英雄となっていたかも知れない。
しかし、人間は花のひらいたときに、うまい具合に人生の幕を下ろすのは難しい。彼はそれから37年間も、ほとんど無意味なダラ幹として、老残ともいうべき余性を持った。
彼の晩年は甚だ不遇で、大正8年6月、風邪で病床についてから医者を介して、政界の黒幕といわれた杉山茂丸に、所蔵の刀剣を買ってくれるように依頼した。熱心な刀剣趣味の板垣がそれを売るというのはただごとではない、と杉山が首をひねって、三田の板垣家をはじめて訪れると、雨漏りするような借家住まいで、しかも家賃もとどこおっているという。
杉山はすぐに山県邸にいって板垣の話をすると山県有朋は他の元老連と相談して6000円の金を集めたが、杉山は、板垣ほどの者がこれほど困窮しているのに、なぜ陛下にお願いせぬか、といった。そこで改めて宮中から2万円の見舞金が下された。
板垣は風邪が悪化して肺炎となり、7月16日午前3時に死んだ。板垣夫人は「御下賜金のおかげで葬式が出来ました」と、杉山に礼を述べた。
その日、土佐出身の作家・田中貢太郎は、板垣家を弔問した。
「そこには床に寄って、覚(さ)めざる眠りに落ちた伯の黒衣を被(き)た遺骸が横たわっていた。その前には2つの経机を据(す)えて、それに線香を燈明を点(つ)けてあった。枕頭には黒い机を置いて、そこには、枕団子を供えてあった」
と、貢太郎は記す。

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板垣退助 Google 検索
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