じじぃの「人の死にざま_1646_山内・容堂(幕末の土佐藩主)」

山内容堂

山内容堂 ウィキペディアWikipedia) より
山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1827年1月) - 明治5年(1872年)2月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。諱は豊信。隠居後の号は容堂。
酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士達からは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。

                    • -

『 | もう一つの「幕末史」 “裏側”にこそ「本当の歴史」がある!』 半藤一利/著 三笠書房 2015年発行
慶喜が15代将軍に、そして大政を奉還・・・ より
幕府ですが、こちらは慶応2(1866)年に家茂が亡くなり、5ヵ月ほど経ってようやく慶喜が15代将軍に就きます。倒幕派からすると、このまま公武合体して共和制になったら、慶喜が共和政治のトップに就くことになる。そうなると、これまでの300年と同じことが繰り返されるだけになりますからね。
明けて慶應3(1867)年1月には、のちの明治天皇睦仁親王が数えで16歳、満14歳の若さで皇位につき、佐幕派倒幕派の対立は日ごとに深まっていきました。
西郷さんは、戦争の端緒をつかもうと徳川を挑発する策略を練っています。秋になると、益満休之助という血気盛んな荒武者が江戸へ送り込んで、浪士団を組ませ御用盗騒ぎを起こして、江戸中を攪乱します。
慶喜側は、これで丸く収まるならばと、同年10月14日には、大政奉還の建白書を朝廷に奏上し、政権を返上してしまいます。これで、多くの人が戦争は回避できたと胸をおろしたことでしょう。慶喜もひとまず安心したのか、事態をしばらく静観することにします。
当時の京都では、刺客剣客が跋扈(ばっこ)し暗殺惨殺の嵐が吹き荒れていました。長州や薩摩が大軍を率いて上洛し、それを快く思わない幕府側と一触即発のにらみ合いが続きました。
そうして慶応3年12月9日には岩倉具視がかねて準備していた通りに、天皇王政復古の大号令を発します。
その日の夜、京都御所で新政府にとって最初の首脳会議である小御所会議が開かれ、政権を奉還した徳川家の扱いについて大激論が交わされました。すなわち、土佐藩主の山内容堂、越前藩主 松平春嶽などが「今度は慶喜を中心に各雄藩のお歴々が集まる会議を開いて、国家を運営していこう」という幕府寄りの持論を展開します。
一方の岩倉具視大久保利通ら武力倒幕派は「慶喜にすべての職を辞してもらい、領地は朝廷に返上すべき」として、真っ向からぶつかりあうのです。
立場上はこの会議に列席してもおかしくない西郷さんは、表へ出て御所の門をがっちり押さえておりました。
「議論なんかではらちがあき申さん、短刀一本でけりがつくことでごわす」と。
つまり、容堂だろうが、春嶽だろうが、ぐだぐだ言うならみんな、斬ってしまうつもりだったようなのです。
山内容堂などは最後までずいぶん粘ったようですが、”鯨海酔侯”と呼ばれるほど大酒飲みで、夕方5時から始まった会談は延々夜中まで続き、酒を飲み続けるうちにしまいにはベロベロになっちゃった。今も昔も、飲んべえはダメですね。
こうして武力倒幕派勝利のうちに会議はお開きになってしまいました。