じじぃの「人の死にざま_1190_由利・公正」

由利公正 - あのひと検索 SPYSEE
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今再び、坂本龍馬由利公正の秘策で救国を! 動画 YouTube
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福井藩財政再建を手がけた由利公正 ふくい歴史王 発掘!
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歴史秘話ヒストリア 「新発見!龍馬の手紙〜風雲児の筆が語る幕末の真実〜」 2014年5月14日 NHK
●エピソード2 もう一人の龍馬がいた?!
新発見の龍馬の手紙にたびたび登場する「三八(さんぱち)」−福井藩士・三岡八郎(みつおかはちろう)。
後に明治政府で手腕を発揮する人物です。高知と福井、遠く離れて育った2人でしたが、性格も思考もウリ2つ。激動の幕末、龍馬と三岡はいかに行動し、どのように出会ったのか、その運命のドラマ。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/201.html
由利公正 ウィキペディアWikipedia)より
由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい)、文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、実業家。子爵。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。
【来歴】
慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に就任する。長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られず福井にて蟄居・謹慎処分となった。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。一方で、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草にも参画した(公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている)。
明治4年1871年)に東京府知事に就任。明治5年(1872年)、岩倉具視に随ってヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874年)、板垣退助江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。明治8年(1875年)、元老院議官。明治10年(1887年)、子爵。明治13年(1890年)には貴族院議員。明治17年(1894年)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。明治42年(1909年)に没す。享年81。

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『近代日本の官僚』 清水 唯一朗/著 中公新書 2013年発行
新官僚の登場――旧秩序を飛び出した人材 (一部抜粋しています)
初めて徴士に任命されたのは由利公正である。当時は岡八郎といった。伊藤、大隈ほど著名ではないものの、太政官礼の発行など財政面で活躍し、五ヵ条の御誓文を起草するなど、新政府の制度設計にも深くかかわり、明治の財政家として必ず指折られる人物である。
1829(文政12)年、由利は福井藩士の子に生まれた。どこにでもいる一藩士だった彼の人生は、ひとりの碩学と出会ったことで大きく変化する。横井小楠である。
横井は熊本藩士であったが、彼の唱えた実学による藩政改革を知った松平慶永招請した。1851年(嘉永4)年、福井を訪れた横井は、藩政の基本となっている前例踏襲は、思考の停止であり、事態を改善するには現実を把握し、それに即した政治を行うべきであると説いた。
横井の考え方は科学であり、実学であった。これに由利や橋本佐内といった若い藩士たちが共鳴した。彼らは江戸後期に普及した藩校教育を受けていたが、それは学政一致を掲げる秩序を重んじる守成の学であった。これでは、低迷する藩の財政を立て直し、迫り来る列強の脅威に対抗することはできない。
歯痒(はがゆ)さを感じていた青年たちの目に、現実と向き合い、考え、有効な打開策を導こうとする横井の実学はまばゆく魅力的に映った。当時、江戸で名声を得つつあった洋学者の佐久間象山は、日本が危機を脱するには伝統的な漢学の秩序にくわえて西洋の実学を導入する必要があるとして、「東洋の道徳、西洋の芸術」(『省けん録』)の要を唱えたが、実学を待望する土壌は全国にあったのである。
あとは各藩がそうした転換を受け入れ、実現できるかであった。福井藩では、横井の感化を受けた由利たちが活躍の場を与えられ、伝統的な勧農策を改めて調査と分析に基づくた政策を立案、実地していった。彼らの振興策成功を収め、藩の財政は急速に改善していく。
1862(文久2)年、由利は慶永に伴われて京、長崎で諸藩の志士と交わり、国内の情勢に通じた志士として知られるよおうになる。しかし、これが仇となり、慶永の引退後、藩執政部が保守化すると由利は危険視され、蟄居(ちっきょ)を命じられた。国内外の激変を前に見動きが取れない。苦悶は募った。
彼の苦境を救ったのは、坂本龍馬である。横井を通じて知り合い、由利の経綸と財政手腕を高く評価していた坂本は、1867(慶応3)年10月、福井に赴いた際に由利と面会し、新政府の樹立に向けた経営策を聞き出す。坂本はこれをまとめ、岩倉具視に彼の登用を薦めた。
由利登用の真言は岩倉に容れられた。12月、福井藩に対して由利の上京と出仕が命じられる。出仕に際して、由利は2つのことを藩に示した。1つは、自分は新政府では福井藩の利害では動かないこと、もう1つは、新政府に出仕している間は藩の職務を引き受けないことであった。長年藩政に関与していないこと、藩主に累を及ぼさないためというのが理由であったが、ほかでもない、藩との訣別宣言であった。
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1868年(明治元)年1月8日、まだ鳥羽伏見の戦火が冷めやらぬなか、由利はこの争いが倒幕派と旧幕府の私闘ではなく新しい当時を実現するための戦であることを宣言し、新政府の方針を明らかにすべきであると説いた。王政復古の大号令から一歩進めて、より具体的な方針を示すことがその眼目であった。
由利はその構想を「議事之体大意」として以下の五ヵ条にまとめた。人々がそれぞれに志を持つこと、心をあわせて国家経営に臨むこと、知識を世界に求めていくこと、人材を盛んに発掘し登用すること、公論による政治を行うことがその趣旨である。実践樹脂の姿勢を取り、身分によらない登用を行い、武家や公家の専断を廃して公議を尽くすこと。由利は、新しい時代への意欲をかき立てる、開かれた国家像を示した。
この「議事之体大意」は、こののち制度掛の福岡孝弟、総裁局顧問の木戸孝允、副総裁の三条実美、岩倉による加筆修正を経て、3月14日、五ヵ条の御誓文として公にされる。江戸城総攻撃の前日であった。
 一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして、さかんに経綸を行ふべし
 一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
 一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
第4条を例外として、由利の創案が踏襲された。旧慣を破り、世界に知識を求め、各々が目標を遂げ、一体となlった国家を形成し、議論によって意思決定を行う。新しい国家の所信表明であった。

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