じじぃの「人の死にざま_1643_松平・春嶽(幕末の大名)」

松平春嶽

松平春嶽 ウィキペディアWikipedia) より
松平 春嶽(まつだいら しゅんがく、1828年10月10日 - 1890年6月2日)は、幕末から明治時代初期にかけての大名、政治家。第16代越前福井藩主。
春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。
田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。

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『 | もう一つの「幕末史」 “裏側”にこそ「本当の歴史」がある!』 半藤一利/著 三笠書房 2015年発行
なぜ龍馬はみなに愛され、そして殺されたのか? (一部抜粋しています)
幕末というと、江戸城開城をもって終わり、それから後は「御一新」、明治の新しい時代が始まったと一般には思われがちです。
しかし、それは勝った官軍側の史観であって、私はそれに与(くみ)しません。
幕末は西南戦争終結する明治10(1877)年まで続き、その後、日本は近代国家たらんと国づくりがあらためて始まったと考えています。そう判断したほうが正確だし、わかりやすいのです。
その幕末史のなかで、坂本龍馬という男は、幕末前期に土佐より出て、日本を駆け巡り日本の構造を根本から変革するために大いに働きました。
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もちろん、明治という時代は、教育機会も国民に与えられ、奇跡的とおいえる近代化を達成し、欧米の侵略から自国の独立を守ることができました。
しかし、議会を開設する一方で、軍の統帥権というものもあみ出され、軍は議会のコントロール外に置かれていきました。やがて、この独立した統帥権は、一人歩きを初めて、太平洋戦争という破局に向かったのです。
龍馬が夢に描いた新国家と現実の歴史は、似て非なるものと言わざるを得ないでしょう。そして今、われわれはいかなる国をつくりたいのか。
龍馬が非業の死を遂げたところを起点に、もう一度歴史を問いなおすことは、今の日本に噴き出している問題を考える上で欠かすことができません。
このように不思議な魅力を持った龍馬について、出会った人物たちは何を感じたのか――残された証言から興味深い真実が見えてきます。
龍馬が勝海舟に会いに行って、世界に目が開かれるの有名な話ですが、勝あての紹介状を書いたのが松平春嶽でした。
文久2(1862)年の当時、龍馬は脱藩浪士です。脱藩浪士が雄藩(越前・福井藩)の藩主に会うなどということは通常ならばあり得ません。よほど立派な人の添状があったのでしょう。
そのときの思い出を、春嶽本人が明治19(1886)年12月11日に書いています。
春嶽が坂本龍馬と岡本健三郎という2人の土佐藩士の話を聞くと、「感佩(かんぱい)に堪へず」。彼らは春嶽を感服させるほどの論理と説得力と攘夷思想を持っていたことがわかります。
勝海舟横井小楠の持論は「暴論」であり、「政事を妨げている」と憤慨し、「勝に面会し」「斬殺するの目的」と知っても春嶽は、「よかろう」と添状を与えたのですから、非常に面白いところですね。
殺気立ってやってきた龍馬たちは「殺すなら議論のあとにやってくれ」という勝の大声に呑まれたのでしょう。結局、すっかり勝に心服してしまいます。
いっぺん考え方を変えたら今度は龍馬、勝の護衛のために勝の自宅の夜回りまで始めてしまいました。
これを春嶽が「まことに坂本龍馬という男の懇切にして厚い志は見事なものだ」というふうに褒めているのです。
まだ何者でもなかった龍馬という若者を、当時一番開明的だった人物が、非常に認めていたことがわかります。