久坂玄瑞
久坂玄瑞 ウィキペディア(Wikipedia) より
久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。
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『 | もう一つの「幕末史」 “裏側”にこそ「本当の歴史」がある!』 半藤一利/著 三笠書房 2015年発行
一死なんぞ言うに足らん (一部抜粋しています)
坂本龍馬と長州藩士たちとの深いつきあいは、この白石(正一郎)邸訪問のあとから始まることになりますが、これ以前にも、彼は一度萩城下を訪れる機械を持っていました。
文久2(1862)年1月14日から22日まで滞在し、名目上の剣術修行にかこつけて長州藩士と試合などもしています。実は土佐藩重役の武市半平太の密書を、長州藩のホープ久坂玄瑞に届けるのが、秘めた龍馬の役割でした。
このときの久坂の武市あての返書に、龍馬と腹蔵なく語り合ったことが書かれています。龍馬はこの熱血の年若い長州藩士との会談で強い衝撃を受けました。
この返書の文言にあるように、
「ついに諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽(そうもう)の志士糾合、義挙の外にはとても策これなき事」
「失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず」
と久坂は龍馬に対し、大義のためには土佐藩も長州藩も滅亡するようなことがあっても、草莽の志士の決起のほかに勤王の実はない、と説きに説いたのです。
2月29日、国に帰った龍馬は、武市の決起を期待したにもかかわらず、彼動かずと知り、帰国して1ヵ月たたぬときに脱藩の挙に出ます。藩の罪人となれば、身内の坂本家の人びとの苦難を考えないわけにはいかない。しかし、それを承知で龍馬は脱藩に踏み切ったんですね。
彼の言葉に言う”土佐の芋掘り”として、草莽に生き草莽に死ぬいさぎよさ、心意気を彼のうちに抱かせたものは何か。とりも直さず「一死なんぞ言うに足らん」という久坂玄瑞の覚悟に真に共鳴したからにほかなりません。この自覚をしっかりと持ったがゆえに、それ以後の龍馬は自由奔放に、かつ執拗に「志」を行動に移すことができたのです。
久坂は龍馬と会って2年後の元治元(1864)年7月、蛤御門の変で敗れて自害しました。25歳の若さです。師の吉田松陰が、
「年こそ若いが、志は旺(さか)んで気魄(きはく)も鋭い。しかもその志気を才で通用する男である」
として、優れた才智と純真な性質を深く愛しました。
この久坂玄瑞とともに、吉田松陰が激賞した男がいます。高杉晋作です。
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その高杉は、龍馬の萩来訪のとき上海渡航のため長崎にあり、折悪しくいなかったのです。もし萩にいたとしても、龍馬と語り合ったとしたら、はたして龍馬をして脱藩を決意させるほどの、精神的影響を与えることができたかどうか。やはり疑問なしとは言えない。彼は傑物ですが、風流味がありすぎた。
まず、”志士とは死士”とまで一途に思いさだめていた久坂玄瑞と出会ったこと、それが龍馬の目をひらかせたと考えます。それがあるいは、死の配剤というべきなのかもしれませんね。
馬関の白石邸で、龍馬と高杉が会うのはずっと先のことになるのです。