じじぃの「人の死にざま_578_木戸・孝允」

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木戸孝允
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木戸孝允 ウィキペディアWikipedia)』 より
木戸孝允は、幕末〜明治時代初期に活躍した日本の武士・政治家である。名の孝允は「こういん」と有職読みされることもある。
長州藩士で、いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末期には、桂 小五郎(かつら こごろう)として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩西郷隆盛大久保利通とともに「維新の三傑」、「維新の十傑」として並び称せられる。
吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、帰藩後は藩庁政務座の最高責任者として活躍する。特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。海外視察も行い、帰朝後は、かねてから建言していた憲法三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩毛利敬親明治天皇から厚く信頼された。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)。
木戸は開明的であったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取った。
【生涯】
天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれる。
嘉永2年(1849年)、吉田松陰兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。
幕府講武所の総裁、男谷精一郎の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間、練兵館の塾頭を務めおおせ、その間、剣豪の名を天下に轟かせる。大村藩などの江戸藩邸に招かれ、請われて剣術指導も行った。
一説には、安政5年(1858年)10月、小五郎が武市半平太坂本龍馬と、桃井道場の撃剣会で試合をしたとされるが、当時の武市・坂本は前月から土佐藩に帰ったままである。また、近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたという逸話がある。
欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する。
この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名(井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。
明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。明治元年(1868年)以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し、明治政府に実施させた。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
木戸孝允(きどたかよし) (1833-1877) 44歳で死亡。 (一部抜粋しています)
いわゆる維新の3傑の中で、木戸はいちばん「進歩的」で、かつ「文化的」な人間であったが、それだけに神経質で、西郷と大久保のヴァイタリティに押され、かっては後輩たる井上、伊藤の勢いに押されて、新政府となってからは、愚痴ばからこぼしていたように見える。
明治10年1月、彼は胸背部に痛みをおぼえたが、天皇が京都へ行幸されるのに従っていった。
2月、その地で西南の役勃発の報に接した。彼は「近年多病、いまみずからを陣頭に立て、西郷の弾にあてられれば至快の往生である」
といって征討の将たらんことを請うたが、天皇は許さなかった。4月に至って、ようやく肝臓肥大の症候が著明となり、衰弱が甚だしくなった。4月19日、天皇みずから馬で、上京上土手町の屋敷に孝允を見舞った。
しかし病いよいよ篤(あつ)く、血便をもらしはじめ、5月26日午前6時半、「西郷、いいかげんにせんか」と、うわごとをもらしながら絶命した。
4ヵ月後に西郷は死に、さらにその8ヵ月後に大久保も死んだ。

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