じじぃの「人の死にざま_1575_木戸・幸一(華族政治家)」

日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第2回 「巨大組織“陸軍”暴走のメカニズム」 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x1x0mw5_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%B8%E3%81%A8%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%AC%AC2%E5%9B%9E-%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E7%B5%84%E7%B9%94-%E9%99%B8%E8%BB%8D-%E6%9A%B4%E8%B5%B0%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0_news
NHKスペシャル 「日本はなぜ戦争へと向かったのか 開戦・リーダーたちの迷走」 Yahoo!ブログ
番組では結構な時間を使って近衛首相をコケにしていたNHK
近衛は陛下やマッカーサーに鋭く左翼や共産主義者の脅威を指摘していたため 、GHQや左翼に目をつけられていました。
それが戦後、近衛の評価がよくない一因でもあります。
それに比べて番組で出てきた内大臣木戸幸一
木戸のしてきたことは一切触れなかったのでここで触れておきます。
東條を首相にしたのは木戸でしたが、この木戸のやってきたことはひどいものでした。
陛下に上奏するために参内する者は全て内大臣の木戸を通さねば出来なかったため、陛下への情報が偏っていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/28221356.html
木戸幸一 ウィキペディアWikipedia)より
木戸 幸一(きど こういち、1889年7月18日 - 1977年4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。

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『日本史有名人の晩年』 新人物往来社/編  新人物文庫 2010年発行
木戸幸一 A級戦犯で服役、出所後も沈黙を守った (一部抜粋しています)
昭和52年(1977)4月、最後の内大臣木戸幸一が89歳で亡くなった。巣鴨拘置所に入所してから32年後のことである。
東京裁判A級戦犯として昭和23年11月に終身禁固刑の判決が下った木戸は巣鴨に約10年間服役し、30年12月、仮出所した。それ以後、木戸は神奈川県大磯町西小磯の自宅に引っ込んで公職には一切つかず、生活のための仕事さえもしなかった。夫人と2人だけのひっそりした隠居生活で、庭いじりや、好きなゴルフ、読書三昧の生活をおくっていた。
昭和史や東京裁判のことについては固く沈黙を守っていた。昭和42年まではジャーナリストには全く会わなかった。ちょうど41年には木戸が東京裁判で提出した昭和政治外交史の決定的な資料である『木戸幸一日記』(上下)、『木戸幸一関係文書』が相次いで出版されたため、新聞、雑誌などのマスコミの取材が殺到したが、一切シャットアウトして語らなかった。
木戸は明治維新の三傑の一人・木戸孝允桂小五郎)の孫で明治22年生まれ。農商務省に入り、昭和5年10月に牧野伸顕内大臣の秘書官長に42歳で任命された。
昭和12年尾近衛内閣では文相、厚相、平沼内閣では内相を歴任して15年6月に内大臣に就任。元老西園寺公望が米内内閣の後継奏請を辞したため重臣会議の議を経て、第二次近衛内閣を成立させた。16年10月には東條英機陸相を後継首班に推挙した。
これが太平洋戦争につながった。もともと日米戦争回避を念願にしていた木戸は軍部強硬論の筆頭であった東條陸相を「軍を抑えられるのは東條しかない」と毒を制するのは毒しかないと考え、天皇への忠誠心を信じて推薦したが、結果は全く裏目に出た。
首相候補者を天皇に推薦する重大な任務は、西園寺公亡き後は元老から内大臣の木戸の手に移っていた。木戸が問われた戦争責任の第一は、この東條の首相への推薦にあった。