じじぃの「人の死にざま_1011_西園寺・公望」

西園寺公望 - あのひと検索 SPYSEE
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42871 軍律について
当時、事件の真相は軍の強い反対で公表されず、そのうえ河本大佐も予備役になった後も固く口を閉ざしてしまったので、真相は長い間極秘のまま封印 されることになった。事件後、河本大佐の秘密を守る努力はたいへんなもので、 うわ言で真相を漏らすのを恐れ、盲腸の手術で麻酔すら拒んだほどであったと伝えられている。そのため真相は不明ですが、これほどの大事件を大佐あたりが独断でやっ たというのは前代未聞で、ちょっと考えにくいところである。このような受けとめ方は事件当時から強く、元老の西園寺などは事件の報をうけとると「どうも 怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元凶ぢやあるまいか」と疑いをもっていたと伝えられている。
一方、事件の処理では田中義一内閣は断固たる処罰をとれず自滅したが、このように軍人をしっかり抑えきれなかった政治が軍部を増長、暴走させ「満州事変」など不幸な日中15年戦争を招く一因になったのではな いかと思われる。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/gunbumondai_gunritu.htm
西園寺公望 ウィキペディアWikipedia)より
西園寺公望は、日本の公家、政治家、元老。
【最後の元老】
西園寺は明治の元勲に一世代遅れて、大正天皇即位のときに元老に列せられている。これを最後に新たな元老が指名されることはついになく、1924年大正13年)に松方正義が死去すると西園寺がただ一人の元老となった。これ以後、内閣総理大臣奏薦は西園寺が内大臣との協議により行うこととなった。
東京駿河台の本邸の他に、静岡県御殿場町の便船塚別荘、同じく静岡県興津の坐漁荘、京都の清風荘の各別荘に隠棲し、元老として重きをなした。最晩年になると、避暑のために御殿場に滞在する以外は、年の大半を冬期が温暖な坐漁荘で過ごしている。
1937年(昭和12年)、組閣大命を受けた宇垣一成の組閣が軍部の反対により失敗すると、西園寺は元老辞退を申し出た。元老拝辞はならなかったものの、内閣総理大臣奏薦は内大臣主導で行い、西園寺がそれを追認する形式となった。
同年の第1次近衛内閣成立以降は次第に政治の表舞台から退き、反対し続けた日独伊三国軍事同盟成立の2ヶ月後の1940年(昭和15年)11月24日に死去した。享年92(満90歳没)。贈従一位
最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる。期待していた近衛文麿に離反され、首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
西園寺公望(さいおんじきんもち) (1849-1940) 91歳で死亡。 (一部抜粋しています)
彼は最後の元老で、昭和前期、歴代首相の奏薦役(そうせんやく)であったが、荒れ狂う軍部に対しても、その軍部にひきずられる近衛文麿に対しても、「困ったもんだ。……どこに国を持ってゆくんだか、どうするんだか……」と言い言い、ただ手をつかねていた。傍観するよりほかない時勢の流れともいえたが、しかし彼自身、みずから身体を張らず、愚痴をこぼしながら傍観している公卿特有の天性をまぬがれなかったのではないか。
昭和15年11月10日、皇居前広場では、天皇、文武百官、5万の群衆を集めて紀元2600年記念祝典が行われた。その夜、興津の坐漁荘で西園寺は悪寒戦慄、尿の混濁症状を起こして病床につき、翌日腎盂炎と診断された。
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24日午後9時54分、糠(ぬか)雨にけぶる坐漁荘で息をひきとった。彼は自分の後継者としようとした近衛のとりかえしのつかない失敗も、その結果たる太平洋戦争の破滅も知らず、その直前に眼を閉じたのである。
「もし日本を滅ぼした政治家の責任を、どこまでも追求してゆくなれば、窮極において西園寺に及ばざるを得ないだろう」
と、政治評論家阿部真之介はいう。
「彼には意志を強行する情熱がなく、決断がなかった。こと行われなければ、シナの被圧迫民衆のようにメーホーズで、溜息一つついて、それでお仕舞いになってしまうのである。彼の口癖にする枯淡の趣味も、事柄によりけりだ。国の生死を一身に担うものが、神仙の如くひょうひょう落々していては、国が滅びる。果たして国が滅びたのだ」
ついで阿部は、西園寺が暗殺されるほどの何事もしなかった、といい、
「政治家が最も危険にさらされた時代に、彼が天寿を終って安穏に息を引きとったことの意義は非常に大きい」と、嘆息する。――実は西園寺も、二・二六事件に見るように革新将校の暗殺の標的になったこともあるのだが、大筋から見ればその通りである。

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