伊藤博文(いとうひろぶみ、1841―1909)
日本大百科全書(ニッポニカ) より
明治時代の代表的な藩閥政治家。公爵。長州藩出身。天保12年9月2日、周防国(山口県)熊毛郡の貧農の家に生まれる。幼名利助、のち俊輔。春畝と号した。
父十蔵が家族ぐるみで伊藤家を継いだため、士分の最末端に籍を置くことになった。吉田松陰の松下村塾に学び、のち高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身、1862年(文久2)のイギリス公使館焼打ちにも参加した。翌年藩命によりイギリスに留学、1864年(元治1)ロンドンで米英仏蘭四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急ぎ帰国、藩主らに開国への転換を説いたが、いれられなかった。
以後元老として内外の重要政策の決定に関与し、とくに日露戦争の遂行と戦後における朝鮮問題、満州問題の処理には重要な役割を果たした。
1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任、韓国の外交権を掌握し、逐次内政の諸権限を収奪して植民地化を進め、韓国併合への地ならし役を務めた。1909年(明治42)統監を辞任し、同年10月、日露関係を調整するためロシアの蔵相ココーフツォフと会談するため渡満、26日ハルビンに到着した際、駅頭で韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に暗殺された。
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第1章 韓国併合への道 より
伊藤暗殺で潰えた軍部暴走を防ぐ「改憲」構想
ここで、政治家伊藤博文について総括しておこう。
伊藤の業績は、やはり「近代史を歪める人々」によって過小評価されていると思う。幕末維新の最後の生き残りであり、あらゆる修羅場を経験し見識を身につけ胆力で乗り越えてきた。なにごとにも慎重で国際的な視野も広く、政治も軍事も得意な超一流の政治家である。それでも伊藤の評価が不当に低いのは、1つは大隈重信などが主張したイギリス型憲法を排除し、君主の権限が強いプロシア型憲法を確立したことだろう。もう1つは、晩年に韓国併合に関わった点である。後者については、すでに述べたように伊藤は誠実に広い視野でこの問題を使おうとしていた。
首相桂太郎や陸軍大将寺内正毅の強硬な路線とはまったく異なるものである。この点はむしろ高く評価すべきである。また憲法の問題については、確かにイギリス型憲法を排除したことは事実だ。それは彼自身の慎重な性格による「イギリス型はまだ時期尚早」という判断があったのだろう。彼の唯一の「失政」とも言うべき金本位制確立への非協力的態度も、その性格に由来するものである。確かに財政だけはあまり得意ではなかったが、憲法および国家体制については自ら立憲政友会という政党を設立し複数政党制への道を開いた。これは、あくまでプロシア型体制を墨守しようとしたライバル山県有朋とはまったく異なる評価できる行動である。また、盟友であった井上馨が維新後は明治を代表する貧官汚吏(たんかんおり)になってしまったにもかかわらず、伊藤は少なくとも金銭的には清廉潔白であった。明治天皇に注意されるほど女遊びは激しかったが、これはあくまでプライベートな話であり、現代ならともかく政治的には問題は無い。
しかし伊藤は前掲書『伊藤博文 近代日本を創った男』によれば、日清、日露戦争を通じてあきらかになった大日本帝国憲法の不備を修正しようと改憲まで考えていたという。
具体的に言えば、大日本帝国破滅の原因となった「軍部の独走」につながる、統帥権の改革である。帝国憲法では軍人は天皇に直属し、内閣総理大臣は陸軍省、海軍省を通じてしか軍隊の行動をコントロールできなかった。そこで、軍隊に関する首相の権限を強化し文民統制ができるように憲法改正を考えていたというのである。しかし、憲法改正については軍部が政治的に利用させることを嫌っていた「陸軍の法王」元老山県有朋が強く反対していた。前にも述べたが、山県は山県で軍人が時の政治に巻き込まれることの無いよう「軍人勅諭」の制定に尽力していた。軍人を天皇の直接命令(勅諭)で「天皇の直属」にしておけば、軍人が政党とかかわりを持ったり政治に関与したりできなくなるだろうと山県は考えたのである。山県はきわめて保守的な性格で政党嫌いであったことも思い出していただきたい。その後の歴史がどうなったかはご存いだろう。軍部は自分たちが天皇の直属であるということを強調することによって、内閣には従わず暴走し結果的に政治を支配するという形で「政治に関与」したのである。政治家として山県より伊藤のほうがはるかに優れていたことがここでもわかる。一方、自ら政党を設立したこともある伊藤は、最終的には軍隊も内閣総理大臣の指揮下に入らねば暴走する危険があると考えていた。
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しかし伊藤がせっかく打ったこの手も、山県一派の巻き返しによって骨抜きになってしまった。山県は新たに軍令という軍隊専門の勅令を制度として加えさせ、これには首相の副署は必要無しとしたのだ。こうした反対派の動きを封じるためには、やはり憲法を改正する以外に無い。伊藤を深く信頼していた明治天皇もその方針を理解していた。だから伊藤が暗殺されなければ、ひょっとこの軍隊が暴走しやすくなるという憲法の不備は改正されていたかもしれない。だが、それは完全な夢物語に終わった。伊藤が暗殺され、もっとも信頼していた臣下の死に明治天皇も気落ちし日韓併合の2年後に亡くなったのだが、この2人以外に憲法改正できる人物はいない。そして天皇の死後は、「偉大な明治天皇が発布した憲法として憲法として権威がつきすぎ、改正を発想することすら政治的に危険となった」(日本大百科全書<ニッポニカ>小学館刊)。
このように、伊藤博文の暗殺は結局韓国にとっても日本にとっても不幸な事態を招いたのである。暗殺自体は愚かな行為としか言いようがない。しかし、それでも暗殺者安重根は「救国の英雄」どころかアジア全体を不孝にした愚か者なのだろうか。確かにその行動は結果的には問題が多々あったことは事実だが、個人としての安重根はきわめて誠実な愛国者であったことも事実だ。
実際、死刑執行までの短い間に接した日本人の多くが、「伊藤公の仇」であるはずの安重根の人柄に感化されているのである。