じじぃの「歴史・思想_648_近代史の教訓・伊藤博文(前編)」

【日本史】 近代11 明治維新2 (13分)

動画 YouTube
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伊藤博文廃藩置県

横浜村塾 by 愛の経営参謀
伊藤博文の業績の一つに、「廃藩置県」を建議し、これを実現させたことがある。
廃藩置県は「一君万民」を唱える松陰の夢だった。ちなみに薩摩にはこうした思想家はいなかった。西郷隆盛は根っからの武士だったし、大久保利通も同じである。大久保が変わったのは博文の感化によると考えられる。彼は博文とともに「岩倉使節団」の主要メンバーとしてアメリカやヨーロッパを見たことでさらに変わった。
https://ameblo.jp/mori1523/entry-10733359263.html

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第4章 伊藤博文(前編)――現在の霞が関が模範とすべき「明治の官僚」 より

明治の「秀吉型リーダー」

  「織田(信長)がつき 羽柴(秀吉)がこねし天下餅 すわりしままに食ふは徳川(家康)」

改革期に現れる日本型リーダーの典型を象徴的に語ったものとして、有名な言葉です。比類なき先見性と合理主義を武器に敵を次々となぎ倒し、旧秩序の一大変革に挑んだ戦国の革命児・信長。明晰な頭脳と卓越した人心掌握術を駆使して、信長から継承した天下統一事業を発展させていった偉大なるプラグマティストというべき秀吉。そして、一見守勢に立たされながらも、恐ろしいほどの忍耐力と計算高さで最終的に天下をまとめ上げた日本型保守の一典型である家康。次々とバトンタッチしていった同時代のリーダー像がここまではっきり異なる3タイプに分かれるというのは、世界史的にみても珍しいことでしょう。

さて、幕藩体制を打倒した木戸孝允大久保利通といった明治維新の立役者たちの後を受け継ぎ、日本を欧米列強に負けない近代国家へと導いていったのが伊藤博文です。彼は明らかに「秀吉型リーダー」であったといえるでしょう。愛嬌があって、いつも明朗。多少ン困難に対しては、めげるどころか、かえって闘士を燃やすところは秀吉とそっくりで、涙もろい性格も似ています。
伊藤といえば、初代首相の就任や帝国憲法の制定、立憲政友会の旗揚げなどがよく知られていますが、維新の幕が開けてまもない明治4年(1871)、大蔵省の一官僚(租税頭)として中央財政の確立に挑み、それは「明治日本の興隆」につながった点も、忘れてはならない彼の功績の1つです。

講和交渉の名手

「百姓から身を起こして天下を取った」と、実際に明治の人々は、伊藤をしばしば秀吉になぞらえていました。人々は伊藤に、「明治国家の立身出世を体現したモデル」を見たのです。
天保12年(1841)、伊藤は長州藩内の周防国山口県南東部)の百姓・林十蔵の子として生れました。
嘉永7年(1854)、父十蔵が長州藩の軽輩(中間、武家の召使いのこと)・伊藤直右衛門の養子となったため、武士としては最下級の身分(卒分)ながら、長州藩士の末端に連なることになります。
さらに安政4年(1857)、長州藩士・来原良蔵の導きにより、吉田松陰松下村塾に入門。ここで熱烈な「尊王攘夷」思想を学び、多くの同志と交わることになるのです。しかし同時に、師の松陰は若き日の彼を「中々の周旋家(実際的な政治家)になりそうな」と評したそうです。炯眼(けいがん)というべきでしょう。
松陰門下で、当時の伊藤が兄貴分として慕い、ほとんど心酔までしていたのが、幕末期の「信長型リーダー」といえる高杉晋作でした。博文という名も、晋作が『論語』の「博約を持って文をなす」から引いて、名づけてくれたものでした。

幕末期の伊藤が、かなり過激な「尊王攘夷」の活動家であったことは、日露開戦や韓国併合を最後まで避けようとした後年の姿からすると、かなり意外に感じられます。
たとえば、文久2年(1862)12月、伊藤は晋作が結成した御楯(みたて)組の一員として品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加。さらに同月、御楯組同志の山尾庸三(のち工部卿、法制局長官など歴任)とともに、国学者・塙次郎(江戸後期の国学者、『群書類従』を刊行した塙保己一の子)を暗殺しています。これは、光明天皇の廃位をもくろむ幕府の以来により、塙が天皇廃位の先例を調べているという”噂”を信じたためですが、これはまったくの誤解にすぎませんでした。しかし、長州藩内ではこれらの動きが認められ、伊藤はそれまでの卒分から士分(一代限り)に取り立てられることになります。

当時の彼が「尊王攘夷」運動に邁進したのは、松下村塾出身者としてその大儀を真摯に信じていたこともあったでしょうが、同時にそれを藩内における「出世」の糸口にしたかったからではないか、とも思います。若年の秀吉も、やはり、信長に認めてもらいたいという一心で、自ら死地に入ることをいといませんでした。伊藤も同様に、最底辺にありながらも強い上昇志向をもって、突出した必死の働きを成し遂げることにより、己の力量を周囲に認めさせたかったのでしょう。結果的にそうした賢明さは、伊藤という男に単なる計算だけでは切り拓けない「決断のダイナミズム」を身につけさせ、そのことがリーダーとしての大きな成長という果実を、若い伊藤の中に育んでいったのです。

文久3年(1863)5月、彼はイギリス人からいわゆる「長州ファイブ」と称されたグループの一員として、イギリスへ密留学するために横浜を出航しました。イギリスで最新の文明を目の当たりにした伊藤は、すぐに攘夷論を捨てて、即座に快国論へ転換します。この柔軟さも、伊藤の面目躍如といったところでしょう。ただしそれは、幕府の進める列強の武力に屈したかたちの「弱さゆえの開国ではなく、国を開くことで日本が富強(富国強兵)を身につけ、その上で万国に対峙して真の独立を勝ち取る、という「攘夷」つまり真の対等に基づく開国であったことは注意すべきです。

そのイギリス滞在中、『ロンドン・タイムズ』を読んで長州藩の攘夷決行と、列強による報復が間近に迫っていることを知った伊藤は、元治元年(1864)6月に急遽、帰国。まさに四国連合艦隊との「下関戦争」勃発の直前でした。彼は攘夷決行派の憤激を買いながらも、命懸けで自重論を説きますが、それも虚しく戦争が始まってしまいます。しかし、なおも伊藤は「早期講和」の実現に奔走し、実際に講和交渉が始まると、下級武士でありながら使節の一員(通訳)として活躍、その「講和交渉の名手ぶり」はイギリス側からも評価されるに至ります。

後年の日露戦争時において、伊藤は開戦と同時に側近の金子堅太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルト大統領に和平の仲介を依頼させ、「早期講和」の実現を図っています。いつの時代も、戦争と同時に必ず講和・収拾を考えるのは、国家指導者にとってたいへん重要な資質です。下関戦争時の伊藤はわずか24歳(数え年)ながら、その資質を十分に発揮していたという点で、栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し、というべきでしょう。
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慶応4年(1868)9月、明治に改元)、当時の伊藤は、まだ長州藩の一幹部にすぎない扱いでしたが、1月、神戸で起きた外国人襲撃事件(神戸事件)を解決し、新政府での「出世」の糸口をつかみます。英公使パークスとやり合った伊藤は、ここでも「講和交渉の名手ぶり」を発揮し列強の介入を避けつつ、事件を円満解決へと導きました。

この功績により、同年5月、伊藤は兵庫県知事に抜擢されます。

その県知事時代、国家の将来を案じた伊藤は、のちの廃藩置県につながる「全国政治統一」の必要性をいち早く唱えた建白書を提出。内容が秀逸だったことから、明治新政府内における「出世」の会談をさらに足早に上がっていくことになりました。