じじぃの「人の死にざま_1384_中山・忠光」

尊王攘夷決行 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=zgEvBWL_GVk
天誅組
文久3年(1863)
 8月13日(新暦9月25日)
攘夷祈願(じょういきがん)のため孝明天皇の大和行幸が発表される。
御親征に名をかりて大和に行幸を乞(こ)い、幕府に攘夷の勅命(ちょくめい)を伝え、幕府がこれを実行しない時は、直ちに違勅(いちょく)の罪を責め、討幕に出て、一挙に王政を復古しようとした。天誅組の大和挙兵は、この大和行幸の御先鋒と自称して行動を起こしたものでる。
 8月14日(新暦9月26日)
中山忠光吉村寅太郎、松本奎堂らが同志38名と京都の方広寺を出発。一行は、伏見から船で大坂に向かう。
http://www.vill.higashiyoshino.nara.jp/tentyugumiyamatokyohei.html
中山忠光 ウィキペディアWikipedia)より
中山 忠光(なかやま ただみつ、弘化2年4月13日(1845年5月18日)- 元治元年11月15日(1864年12月13日))は、江戸時代末期(幕末期)の公家。
権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
中山忠光 (1845 - 1864) 19歳で死亡。 (一部抜粋しています)
文久3年8月から9月にかけてのいわゆる「天誅組」の変に敗れ、大和から長州へ逃亡したその首領、白面の貴公子中山忠光は、長州の「招かざる客」として、長藩内の西の果ての山間を転々と移動させつつかくまわれていたが、翌元治元年7月、長藩が、外に馬関戦争に敗れ、内に禁門の変に敗れ、攘夷派の潰滅期にはいるや、長藩はこのやっかいものを処理せざるを得なくなった。
田耕村の1農家に、妊娠中の侍女恩地登美その他10人はどの付添いとともに暮らしていた忠光は11月9日、夜おびき出され、近くの寺へ向かう途中、山中で長藩の5人の刺客に襲われた。提灯を持っていた庄屋の幸八がふいに駈け出したあと、棒で足払われ、田圃に転落したところを刺客たちに押さえつけられ、絞殺された。
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長藩は長くこのことを秘した。明治天皇は彼の姉の子である。