相楽総三 - あのひと検索 SPYSEE
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ロシア・タイの『相楽総三』を検証してみる ニコニコ動画
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赤報隊 「相楽総三」の軌跡
http://byp.web.infoseek.co.jp/sagara.htm
相楽総三 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
相楽総三は、幕末の尊皇攘夷派志士。江戸出身。赤報隊隊長。
【来歴・人物】
下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。本名、小島四郎左衛門将満。
関東方面の各義勇軍に参加し、元治元年(1864年)の天狗党の乱にも参戦。
その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。運動とはいえ総三らがやったことは、江戸市中への放火や、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
相楽総三(さがらそうぞう) (1839-1868) 29歳で死亡。 (一部抜粋しています)
幕末江戸の治安を攪乱(かくらん)するための謀略、いわゆる「薩摩御用盗」の中心人物となった志士相楽総三は、慶応3年12月の幕府方の薩摩屋敷焼き打ちからあやうくのがれて西下し、翌4年1月、官軍が東征の準備にとりかかるや、幕府方に抗戦の余裕を与えるべからずとさけんで即刻その先鋒隊となって出撃することを提案し、許されて「赤報隊」と名乗る一軍を編制して中山道を進撃した。
「赤毛」をかぶった颯爽(さっそう)たる革命児を隊長にいただく赤報隊は、中仙道の諸藩を戦慄させた。
しかるに、やがて中仙道諸藩に抵抗の遺志のないことが明らかになって、官軍総督府から赤報隊は有害無益と判断され、処分される運命におちいった。
3月1日、下諏訪まで進駐していた総三以下8人の赤報隊幹部は、総督府本陣に呼び出されて逮捕され、1回の取り調べもなく冷雨の庭につながれたまま一椀の食も湯も与えられず、3日目を迎えた。
3月3日、なお寒雨ふりしきる夕刻、彼らは下諏訪はずれの磔田という刑場にひかれ、次々に斬首の刑に処せられた。
埋(うず)もれていた彼の名を世に出した長谷川伸の『相楽総三とその同士』にいう。
「相楽がやがて死の座に直った。雨はまだやまない。相楽は皇居を遥拝し、静かに太刀取りを顧みて『しっかりやれよ』といった、太刀取りは荒肝(あらぎも)をひしがれたように動揺が出た。再び静かに相楽が、『見事にな』といった。これに災いされたか、太刀取りは相楽のうしろに廻り、気を鎮めて一声とともに斬ったが、仕損じて右の肩先へ斬り込んだ。とっさに相楽が振り返り、『代れ』と怒気を含んで叱りつけた。これにたじろいで、その太刀取りは顔が土気色になった。
代わって、新しい太刀取りが背後にくるまでに、相楽の襟のあたりに、流れる血が滲み出し、悲痛な光景となった。刑場の内も外も咳1つするものすらいない。太刀取りは神気を養っていたが、やがて一声とともに刀をふり下した。今度は見事にいって相楽の首が三尺ばかり飛んで、雨が叩く小さな紋が数限りなく立つ地面へ、音をたてて落ち、泥をがばっと四方に飛ばした。
後になってこのことが誇張され、相楽の首が六尺余りと飛びあがり、傍の柳の枝に咬(か)みついて、いくら引っ張ってもとれなかった、とこうなった」
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相楽総三 Google 検索
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