じじぃの「人の死にざま_665_江藤・新」

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幕末歴史探訪 江藤新平
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江藤新平 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
江藤新平は日本の武士(佐賀藩士)、政治家である。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄。維新の十傑の1人。
【生涯】
肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市鍋島町)に佐賀藩士の江藤胤光・浅子の長男として生まれる。
江戸時代後期の外国船の日本近海への出没やアメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、安政3年(1856年)には意見書である『図海策』を執筆する。安政4年(1857年)に結婚。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める。
文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。
戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。薩摩藩西郷隆盛幕臣勝海舟の会談で江戸城無血開城が決定するや、江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言する。旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。明治2年(1869年)には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。
文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
江藤は征韓党を解散して脱出し、3月1日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて3月25日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
処刑直前、「唯皇天后土のわが心知るあるのみ」と三度叫んだといわれている。その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。
辞世は「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
江藤新平(えとうしんぺい) (1834-1874) 40歳で死亡。 (一部抜粋しています)
明治7年2月23日、「佐賀の乱」に敗れて、江藤新平は、鹿児島に逃れて西郷に逃れて西郷に救いを求めたがはねつけられ、高知に走って林有造に助けを求めたが敬遠され、やむなく阿波へ越えて大阪に渡ろうとした。
途中、土佐の山中では急流と絶壁に間にはさまれて、竹笠をかぶったまま冬の豪雨の中に、一夜立ち往生し、「余は母の胎を出でしよりかくのごとき苦痛に遭遇せしことあらず」という惨苦をなめた。
3月29日、土佐から阿波にはいろうとして、甲の浦で捕史にとらえられ、偽名をもって逃れようとしたが、手配写真をつきつけられて就縛(しゅうばく)した。その手配写真は、彼が司法卿時代にとりいれた制度によるものであった。
彼は4月4日差がに護送され、13日、断罪された。
わざわざそのために佐賀まで出張した大久保内務卿は。法廷の江藤の陳述が曖昧をきわめ、いかにも死刑を逃れるのに汲々しているかのように見えるのをのぞき見て、
「江藤醜態笑止なり」と嘲笑した。
江藤は、乱そのものより、それ以前の、司法卿としての辣腕が明治政府の中軸を震撼させ、ために大久保の凄(すさま)じい憎悪を買っていることを知らなかった。
かって彼の部下であった裁判長河野敏鎌により、斬罪梟首(きょうしゅ)の判決が下った刹那、江藤は顔色を変じ、「裁判長、私は」と絶叫したが、あとをつづける前に廷丁(ていてい)によって廷外へひきずり出された。
その河野敏鎌は、のちに、その江藤の態度は「生命さえ全うするを得ば、他日君国のため大いに抱負を実行し得る大信念」にもとづいたものであったろう、と悔いた。
同日刑は執行され、梟首となった写真は、大久保の意志により、全国の役場に配られた。
人間には、人を断罪することには熱情的だが、自分が断罪される可能性のあることには不感症な傾向があるが、江藤はその象徴的な典型である。

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