じじぃの「人の死にざま_1461_山縣・有朋」

第一講:伊藤博文山県有朋Ⅰ編-2 動画 YouTube
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山縣有朋

山縣有朋 ウィキペディアWikipedia)より
山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。
内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。
長州藩領内の蔵元仲間三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。
高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。

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『あの戦争と日本人』 半藤一利 文春文庫 2011年発行
統帥権と日本人 (一部抜粋しています)
拙著『幕末史』でわたくしは、黒船襲来から西南戦争までについて述べました。そのいちばん最後のところで、明治という近代日本は、まず軍事国家としてスタートしたんだ、と言いました。引用します。
「芯から政略家である山県と桂のコンビのまことに巧妙な計画によって、軍隊指揮権ははやくもひとり歩きをはじめたのです。ですから明治二十二年に憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していましたから、軍隊にかんする憲法の条項はたったの二条しかありません。よろしいですか、国の基本骨格ができる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していたのですよ」
ここにでてくる山縣有朋という、天才的な軍事指導者の登場により、この国家形態がいち早く作り上げられたことを以下に少々くわしくお話します。
明治10年(1877)西南戦争で総参謀長として西郷軍と戦った山縣は、そのときに、初動の動員の遅れから熊本籠城の苦戦を弑されたことなど、非常に苦労した経験から、「軍隊の指揮権というものは、いちいち政府の許可を求めなくても動かせるように、もっと簡単なものにしたほうがいい」ということで、明治11年12月に、参謀局を改革して参謀本部をつくりました。つまり組織を大きくして権威をもたせたんです。
そこまではいいんですよ。
山県はそのときの陸軍卿、つまり陸軍大臣だったんですが、それをさっさと後輩の西郷従道に譲って、自分が参謀本部の本部長になったんですよ。これは月給の上からいうと、ずいぶん損する話なんですよ。となると、山県の野郎のことだから。魂胆があるんじゃねえか……と(笑)。もちろん魂胆があったんです。
彼はまず、さっさと「参謀本部条例」というものをつくっちゃった。
これ、どういうことを基本的に決めたのかというと、参謀本部は独立した軍令機関となること。もっといえば、あらゆるものから独立して軍隊は軍隊だけの機関にすること。
それから、参謀本部長は陸軍卿とも独立し、さらに優越する、というんです。そういうことも決めました。なにしろ、西郷従道より山県が先輩だから、だれも文句を言えなかった(笑)。
もう少し詳しくいうと、条例第二条で、参謀本部長は「帷幄(いあく)の軍務に参画する」と決めた。
この「帷幄」というのは「天皇の作戦総本部」といったものです。つまり参謀本部天皇の幕下に入る。転送直率の組織にする。ということは太政大臣(首相)の部下じゃないんだよ、というふうに決めたわけです。
さらに、第五条に、軍令事項の実行。軍隊に関するいろんな命令事項に関する限りは、参謀本部長は「親裁の後直ちにこれを陸軍卿に下して施行せしむ」。天皇のOKを得て、天皇がこれをしろと参謀本部長に命じたことのついては、参謀本部長が陸軍大臣に伝えて実行させる、いいかえれば、本部長が大臣をも顎で使えるという規約なんですよ。
これをつきつめていくと、陸軍大臣を閣員の1人とする太政大臣、つまり総理大臣でさえも、軍令に関する限りは、天皇命令が出た場合の参謀本部長命令には従う、ということになる。というふうに解釈を拡大できるわけなんですね。結局、参謀本部長は内閣の上に立つという見方だってできる……このへんが、山県の術策のすごいところですねえ。