じじぃの「歴史・思想_655_近代史の教訓・小村寿太郎(前編)」

【高校日本史】日英同盟日露戦争直前の日本とイギリスの動向~

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日英同盟締結

日英同盟路線
代表が桂太郎首相(1901年6月就任)や小村寿太郎外相、山縣有朋、そして陸海軍の首脳。
1901年4月、ロンドンの駐英公使・林董が東京に送付した「日独英三国の同盟をドイツ代理公使から提案された」との報告がきっかけとなって、日本側ではイギリスの意向を探り、同盟に向けての可能性について検討が始められました。
https://ywhc.ken-shin.net/futski/6_2_b.html

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第11章 小村寿太郎(前編)――日英同盟を締結させた気力と胆力 より

江戸の面影を残す飫肥に生まれる

日向(ひゅうが)国飫肥(おび)藩五万石(宮崎県日南市)。国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、江戸時代の面影を今に伝える静かな城下町です。7歳から15歳まで、小村寿太郎は毎朝その街並みを歩き、藩校の「振徳堂(しんとくどう)」に通いました。飫肥を訪れた際、私はその小村の奏でる下駄の音が、今も聞こえてくるような気がしたものです。

近代日本の外交官の中で、小村ほど、真の意味で国際社会というものに通じた外交官はいないと思います。

それでいて、また小村ほど日本人として「武士のエートス」――高い品性と強い矜持を保ち、身命を擲(なげう)って国事に尽くす覚悟――を感じさせる外交官じは、あとにも先にも1人としていないと思います。日本史上、最も優れた外交官を1人だけ挙げよ、といわれれば、私は一瞬のためらいもなく、「小村寿太郎」と答えるでしょう。

安政2年(1855)、小村は飫肥藩徒士(かち)・小村寛の長男として生れました。アメリカのペリーやロシアのプチャーチンが来航し、開国を迫った翌々年のことです。小村家の「跡取り」として幼い寿太郎を厳しく訓育したのが、祖母の熊子でした。熊子はまだ暗いうちに行灯(あんどん)をともし、寿太郎を励まして読書を命ずるのが常でした。成長したのちも「国事に尽くす」以外に楽しみを知らない、といわれた小村の潔癖な性格は、この祖母ゆずりだったといわれます。ここでも世代を超えた、「祖父母による教育」がもつ意味を感じさせられます。
さらに、小村の人格形成に決定的な影響を与えたのは、「飫肥藩第1の人物」といわれた振徳堂の教師・小倉処平でした。実際、まだ10歳に満たない小村の将来を、小倉は見抜いていたといわれています。

維新後の明治3年(1870)、当時は薩長土肥の雄藩出身者で占められていた東京の大学南校(明治新政府の官僚養成機関。後の開成学校、東京帝国大学)に、藩閥外の小村が入学を果たせたのも、小倉の建議で発足した「貢進生制度」のおかげでした。その後、明治8年(1875)、21歳の小村は第1回文部省留学生に選抜されて、アメリカのハーバード大学法学部に留学します。

しかし留学中、アメリカで小村は思いもかけない悲報に接します。恩師の小倉処平が明治10年(1877)に勃発した西南戦争薩軍に身を投じ、玉砕の果てに自刃したのです。小倉は「征韓論争」で西郷隆盛を追い出した新政府のやり方に痛憤し、郷党を率いて西南戦争に参加していたのです。小倉は人柄や思想の面でも、まさに「飫肥の西郷」と呼ばれるにふさわしい人物でした。若き日にその小倉の薫陶を受けた小村が、「大南洲の心」の系譜につらなる人だったことは忘れてはなりません。
ただの欧米化した外交官ではなかった、ということです。

アメリカにあった小村は、「恩師死す」の悲しみを乗り越えて勉学に励み、優秀な成績で同大学を卒業しました。頭脳抜群なのはもちろん、その頃の小村には「サムライ」としての威儀が自然に備わっていたのでしょうか、彼に対しては、構内ですれ違うアメリカ人の学生の誰もが一々帽子をとり、敬意を表していたといいます。

「三国干渉」の屈辱

日清戦争勃発後、小村は第1軍司令官・山県有朋に従い、民政官として現地の占領政策に従事します。その際、小村は国際法に則った「王者」の軍が占領地でいかに振る舞うべきか、を士官たちに繰り返し説きます。当初はうるさがれ、「軍のやることに口を出すな」と反発されますが、その胆力、つまり肚の据わり方が「ただ者ではない」とわかると、軍人たちは小村に一目も二目も置くようになり、次第に深く信頼されるようにすらなったといわれます。こうして山県に加えて、第1軍隷下の第3師団長・桂太郎にも大いにその人物と力量を認められることになりました。

明治28年(1895)4月、下関条約が締結され、日清戦争は日本の勝利に終わりました。ところがその直後、日本はロシア、ドイツ、フランスに脅されて、清国から割譲だれた遼東半島を変換させられます。世にいう「三国干渉」です。当時、小村は日清戦争の疲れがたたって病床にありましたが、「三国干渉」の報を聞くと痛憤のあまり高熱を発し、一夜にして、それまでの貴公子然とした容貌から、現在われわれが写真で見る、目が窪み、頬がこけた顔相になったといわれます。いわば小村はその身体に「三国干渉」の屈辱を刻みつけたということでしょう。

ロシアの脅威が迫る

桂内閣発足当時、ロシアの勢力拡張に脅威を強く感じるようになった日本政府の中では、2つの意見が対立していました。1つは、伊藤博文井上馨、当初は山県有朋も含めた元老世代の「日露協商論」です。これはロシアの満州支配を認める代わりに、日本の朝鮮半島支配を認めてもらう、いわゆる「南韓交換」により、日露間の利害調整を図ろうとするものでした。
一方、こうした元老たちの動きに対し、小村が唱えたのが、イギリスと提携してロシアを牽制する「日英同盟論」でした。

そもそも地政学的見地からいえば、伊藤ら言論世代が唱える「満韓交換」は最初から実現の見込みのない幻想でした。すでにロシアは満州本土だけでなく遼東半島の旅順・大連の旅順・大連を手にしているのです。この2都市から海路を通じてウラジオストクへ至るには、渤海黄海を経て対馬海峡を抜け、日本海を通っていくのが最短ルートです。そうなれば、朝鮮半島は完全にロシア海軍の制海圏内に入ってしまいます。また対馬海峡制海権をめぐって日露の衝突は避けられません。仮にロシアが戦争という手段に訴えなくても、自ずから韓国がロシアの経済圏内に入るのは、火を見るよりも明らかでした。
こうした有利な状況にあったロシア側にしてみれば、日本側の要求に応じて自ら韓国(当時、李氏朝鮮の国号は「大韓帝国」)を手放し日本の優位を認める必要など、どこにもなかったといえます。「満韓交換」論は、日本の希望的幻想にすぎませんでした。

「外交」よりも「内交」に苦労する

それでも伊藤は、最後まで「日露協商」路線にこだわりました。英露両国はすでに約1世紀にわたり、ユーラシア大陸の覇権をめぐって、世界史でいう「グレートゲーム」を繰り返してきました。もし日本が、その一方の当事者であるイギリスと同盟を結べば、ロシアとの対立が不可避になってしまうと考えたのです。

列強による「黒船」の威圧に屈して強引に開国させられた、幕末の「弱小日本」を肌で覚えている伊藤ら元老世代にとって、世界最強の陸軍国ロシアとの戦いは、到底、勝ち目がなく、日本の亡国を招く事態でしかありませんでした。そこで伊藤は井上馨のお膳立てを受け、明治34年(1901)9月、ロシアとの合意をめざし単独で訪露の旅に出てしまったのです。

ここに至り、イギリス側との同盟交渉よりも元老たちへの説得のほうが、小村の最大の関心事となります。小村の言葉を借りれば、「外交」ではなく「内交」つまり国内の統一こそが、つねに日本の進路を決定する最大要因だとわかっていたからです。

そこで小村は桂とスクラムを組み、まず12月に開かれた元老会議で、伊藤の同調者である井上馨を説き伏せ、日英同盟賛成派に転じさせます。その上で、訪露中の伊藤に対し、電報であれこれ注文をつけ、日英交渉が邪魔されないよう巧みに布石を打ちました。一方、伊藤による日露交渉は、予想されたように失敗に終わりました。

かくして明治35年(1902)1月30日、日英同盟が調印されました。皮肉にも伊藤の訪露がイギリス側を刺激して、日英間の同盟調印を急がせることになりました。それにしても、日英同盟締結は小村が外相に就任してからわずか4ヵ月後のことです。これだけの短期間のうちに、元老の反対論に真っ向から立ち向かい、このあと長く日本の国家戦略の要となる「日英同盟」という重大な外交目標を実現させた小村という人物は、いったいどれほどの器量と胆力の持ち主だったのでしょうか。