じじぃの「歴史・思想_654_近代史の教訓・児玉源太郎(後編)」

児玉源太郎

嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日)~明治39年1906年)7月23日
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旅順攻囲戦

ウィキペディアWikipedia) より
旅順攻囲戦(1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。

ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。

日本は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満州南部で予想される決戦に挑む日本軍(満州軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。

このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討された。旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた。

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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第10章 児玉源太郎(後編)――日露戦争勝利を導いた男のもう1つの戦い より

異例の降格人事

日露戦争勃発を目前に控えた明治36年(1903)10月1日、陸軍に一大事が起こります。参謀次長の田村怡与造(いよぞう)が、肺炎のため急死したのです。甲州山梨県)しゅぅ秦の田村は「今信玄」と呼ばれるほどの智謀の持ち主で、長年、対ロシア戦研究に没頭していたのですが、どうしても勝機を見出せぬまま、ついに心労に押し潰されて命を落としたのだといわれます。

問題は、田村の後任に誰を据えるかでした。当時、参謀総長は元老の大山巌が務めていましたが、大山は細かいことはすべて部下に任せるというタイプで、事実上の作戦立案、実行、指導はすべて参謀次長が担当することになっていました。こうした中、常備軍200万、予備役を含めて500万を呼号する世界最大の陸軍国ロシアとの戦争が不可避であるとしたら、作戦全般を指揮する参謀次長は、近代戦に通じ、将兵人望が厚いだけでなく、並外れた胆力の持ち主でなければ務まりません。
そんな人物を当時の日本に求めれば、それは児玉源太郎しかいなかったでしょう。

しかし当時の児玉は、内相と文相に加えて台湾総督を兼任し、副総理格として桂(太郎)内閣を切り盛りしていました。しかもこのとき、児玉は桂と組んで、文部省や農商務省の廃止とともに、府県の統廃合(3府43県を3府24県とする)など、壮大な国政改革に挑もうとしていました。

この改革で児玉や桂がめざしていたのは、地方分権を進めて中央政府の規模を縮小し、そこで浮いた余剰財政を軍備拡張や国内外のインフラ整備に投資し、20世紀を迎えた世界のグローバルな国力競争に勝ち抜いていこうというものでした。まさに、今の「道州制」の論議につながる先見性のある改革案だったといえましょう。

とはいえ、国家の存亡を賭けて戦うことになる。来るべきロシアとの戦争を前にしては、首相の桂も、児玉を泣く泣く内閣から手放さざるをえませんでした。
ひとつ懸念があるとすれば、次期首相の声もある副総理格の児玉が、参謀次長への降格人事を呑んでくれるかどうかでした。しかし、児玉は2つ返事で引き受けました。日本の軍人の中で、総理の座を自前にして、このような降格人事を受け入れたのは、児玉以外にいません。
国家の危機に際して、あえて「火中の栗を拾う」人物が繰り返し現われる。それは明治という時代がもった顕著な特質といえましょう。
私はこれこそ、明治日本が、あれほどの興盛をした最大の要因だったと思います。

奉天

旅順(りょじゅん)攻略後、児玉は既定の作戦どおり、満州の荒野でクロパトキン指揮したのロシア軍主力を一気に粉砕すべく、2月21日、最後の決戦を挑みます。有名な「奉天会戦」です。日本軍25万、ロシア軍32万、双方合わせて57万人もの戦闘兵員が地で血を洗う、人類史上最大の会戦でした。
日本の国力からいって、ここが日本陸軍の「攻勢終末点」と見た児玉は、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦を実行します。すなわち、日本陸軍は敵軍よりも劣勢であったにもかかわらず、メッケル(日本の陸軍大学校教官として招聘されたドイツ人)の戦法に則って両翼から敵を包囲する作戦を立てたのです。ここで一気にロシア軍を殲滅して、戦争終結につなげるためでした。

ところが、包囲が完成する前にロシア軍は退却を始めてしまい、「長蛇を逸する」かたちになりました。このことは、たしかに情報の問題と並んで、軍事戦略家・児玉の「失敗」の1つに数えられるべきかもしれません。その上、すでに兵員、弾薬を消耗し尽くしていた日本陸軍には、ロシア軍を追撃する余力はもはや残されていなかったのです。

奉天会戦の日本側死傷者は7万、対するロシア側は9万、捕虜2万とされます。まさに、日本側がかろうじてつかみ取った勝利でした。
しかし、児玉の大きな功績として何より特筆すべくは、児玉が奉天会戦の直後、秘密裡に日本に帰国し、元老や重臣などを訪ね、日本の戦力が尽きていることを強く訴え、「早期講和」を説いて回ったことです。日清戦争のときのように領土と賠償金がとれなければ、国民が納得しないと考えていた首相の桂も、このとき、児玉の叱責を浴びて目が覚めた1人でした。そして9月5日、賠償金こそとれなかったものの、ポーツマス講和会議での外相小村寿太郎の頑張りでロシアから南樺太を獲得し、「日本勝利」を確定した上で講和を結ぶことができました。このことを知った児玉は、奉天の司令部で号泣したと伝えられます。

日露戦争での日本の勝利は、それほど際どい勝利だったのです。そして、その大局をつかみ、勝利をギリギリのところで可能にしたのは、軍人である児玉のなりふり構わない講和推進の努力でした。

元老との対立

こうした児玉の卓越した戦争指導により、日露戦争は日本の辛勝というかたちで終結を見たのですが、その後、彼にはもう1つの「戦い」が待っていました。
明治39年(1906)5月22日、元老の伊藤博文」は、今後の満州経営のあり方を決めるため、時の首相西園寺公望や閣僚、そして元老たちを招集します(この会議は「満州問題協議会」と呼ばれました)。
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結局、満州のような荒野に足を突っ込むことで、欧米との間にいらぬ火種を生むことを恐れる元老と、台湾と同じように自分の手で、満州の地を近代都市群に生まれ変わらせたいと願う児玉との溝は埋まらないまま、会議は物別れに終わりました。

それでも、児玉は諦めませんでした。その後、南満州鉄道(満鉄)の設立が公布されると、7月13日、児玉はその設立委員長に就任。さらに21日、児玉は台湾統治時代の部下である腹心の後藤新平を呼び出して、満鉄の初代総裁を引き受けてくれるように頼みました。しかし、ここまででした。
23日、児玉は脳溢血で、突然この世を去るのです。まだ55歳の若さでした。
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児玉の死後、その意志を受け継いだのが、初代満鉄総裁になった後藤でした。児玉の理想をもとに後藤が唱えた方針は、「文装的武備論」というもので、軍備を前面に出さず、鉄道経営を軸としながらも、経済、教育、文化、都市計画を内地並みに充実させていく、という開明的な近代化路線でした。まさに、かつて児玉と後藤のコンビが台湾統治で追い求めたものが、その下地になっていることがわかります。

こうして一面の荒野にすぎなかった満州には、内地をも凌ぐ近代都市が次々に誕生していったのです。その理想郷の源にいた人物こそ、児玉源太郎でした。とかく日本文明には、小さな「箱庭・盆栽型」というイメージがありますが、児玉はそうした枠にとどまらない、真に世界的スケールをもった稀有の日本人でした。