じじぃの「歴史・思想_656_近代史の教訓・小村寿太郎(後編)」

Scenes and Incidents, Russo-Japanese Peace Conference, Portsmouth, N.H.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bi73MBR813s

明治38年8月14日の日露講和会議の様子


   

ポーツマス講和会議 ~小村寿太郎と交渉の「舞台裏」~

知っていましたか? 近代日本のこんな歴史
さて、日露戦争終結させたのがポーツマス講和会議とポーツマス条約であるということはよく知られていますが、それでは、1ヶ月に及ぶ講和会議の「舞台裏」では何が起きていたのでしょうか。アジ歴の資料で探ってみましょう。
●会議の「困難」
ここまで見てきたように、ポーツマス講和会議はハードなスケジュールで進められました。そして、その内容もまた非常に難しいものでした。
戦争において、どちらかの国が完全に優位に立っているわけではなく、日本もロシアも戦争を続けるのが難しくなったという状況で始められた講和会議ですから、どのような取り決めを行うかという点で、お互いの意見が食い違うこともしばしばあったようです。「非正式会議」などで細かな点での調整を行っているのも、こうした状況によるものでした。結局のところ、締結された講和条約では、日本は満州大韓帝国における利権を得たものの、ロシアから戦争賠償金を得ることはできませんでした。日本国内ではこれに対する不満の声が高まりました。
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p09.html

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第12章 小村寿太郎(後編)――日本の勝利を決めたポーツマスでの粘りの交渉 より

秘密の「広報大使」金子堅太郎との誓い

明治37年(1904)4月、日露開戦から2ヵ月後、1人の日本人がアメリカのボストンで熱心に演説していました。貴族院議員で男爵の金子堅太郎です、

金子は母校ハーバード大学のサンダース講堂に詰めかけた満員の聴衆を前に、日露戦争における日本の正当性を訴え、さらに黄色人種が白人に災いをもたらすという「黄禍(こうか)論」に対し、徹底的に反駁(はんばく)しました。「黄禍論」は日本の印象を貶(おとし)めるために、当時、ロシアがアメリカで精力的に行なっていた反日プロパガンダだったからです。金子の演説は聴衆の大喝采を浴び、金子は予定時間を大幅にオーバーして演説を下りました。

世論の国アメリカにおいて、金子は日本の「広報大使」として各地で演説旅行を繰り返し、反日に傾きがちな米国民を親日にするよいう、対抗プロパガンダの「秘密工作」を遂行していたわけです。もともとアメリカは、独立戦争、さらに北部は南北戦争でロシアの支持を受けた歴史的経緯から、伝統的に親露感情が強い国でした。そのため、金子の「秘密工作」には大きな困難が予想されましたが、金子は得意のスピーチで徐々に親日派を増やしていきます。そして米大統領ルーズベルトと、終始連絡を取り合うことに成功しました。当時、日本政府は大国ロシアとの長期戦は不利と見て、とくにルーズベルトによる時機を得た講和の仲介に期待をかけていたのです。
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金子の働きによって、ルーズベルトが日本政府の期待どおりに日露間の「講和の仲介」を申し出たのは、明治38年(1905)5月の日本海海戦の直後でした。たしかにその大勝利は、「もはやロシアに勝算なし」を世界に印象づけたといえます。しかしこのとき、すでに日本の国力は完全に限界に達していました。これ以上の戦争継続はまったく無理だというのが、元老や軍部の一致した意見だったのです。それだけにルーズベルトの講和斡旋は、日本にとって実に有難い申し出だったといえます。

とはいえ、ルーズベルトが講和斡旋を引き受けた理由は、すべて善意によるものだったわけではなく、実はそこにはまったく逆の思惑もありました。日本海海戦を見て、彼は早くも日本海軍に勝る大海軍の創設を決意しています。ルーズベルトは近い将来、日本こそ、アメリカにとっての最大の「仮想敵国」になることを、その瞬間見て取っていたのです。つまり、彼の講和斡旋の申し出の背景には、このあたりで日露戦争を「水入り」にしておくことで、これ以上の日本の勢力拡大に「歯止め」をかけよう、との意図があったのです。

あえて損な役回りを引き受ける

こうして明治38年8月10日、米大統領ルーズベルトの調停による日露戦争の講和会議が、米東海岸の港町ポーツマスで開かれることになりました。ポーツマス講和会議の日本側首席全権、小村寿太郎が日本を出発したのは、その1ヵ月前のことです。
しかし本来なら、日本側の首席全権には元老の伊藤博文がなるべきでした。実際、ロシア川の全権は元大蔵大臣で、帝政ロシアのいわば元老クラスのリーダーであるウィッテが務めています。伊藤は日清戦争講和の首席全権で、講和条約をまとめた経験があり、またウィッテらロシア代表団とも面識があり、まさに打ってつけの人物でした。しかし伊藤は、固辞に固辞を重ねて逃げました。これは他の元老たちも同じでした。
なぜならポーツマス講和会議は、たいへんな難航が予想されていたからです。
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まず講和交渉開始にあたった小村が注意したのは、暗号電報をロシア側に読まれないようにすることでした。実は日露戦争時、日本の外交、軍事暗号の内容は、ロシア側にすべて筒抜けの状態だったのです。また、前述したとおり、御前会議の内容さえ、その日のうちにロシア側に漏れていたほどです。
ロシアに暗号を読まれていることを日本がはっきり始まったのは、開戦からおよそ10ヵ月が経った明治37年(1904)12月の、まさに旅順攻略に苦戦していた頃のことでした。日英同盟の誼(よしみ)により、イギリス情報部に通じていた英外交官スプリング・ライスから日本はその事実を知らされたのです。そこで、小村はこれまでの失態を繰り返さないように、ポーツマス講和会議には、日本随一の暗号の専門家だった佐藤愛麿を同行して、万全の対策をとっています。

さらに、講和交渉開始のまさに直前の8月9日、ストックホルムで対露諜報活動をしていた長尾駿郎陸軍中佐から、小村に1つの決定的な情報がもたらされます。それは、ロシアはすでに極東に軍隊を派遣する余力はない、という報告でした。7月に黒海沿岸のオデッサで起こった「戦艦ポチョムキンの反乱」を端緒に、ロシアでは革命騒ぎが激化し、すでに対日戦争どころではなくなっていたのです。その背景には、明石元二郎陸軍大佐による決死の「秘密工作」がありました。
明石はロシア国内の革命派と秘密裡に接触して資金や武器を提供し、帝政ロシアの足もとをぐらつかせることに成功していました。小村はこうした情報を総合的に判断し、ウィッテが交渉を決裂させるはずはない、と読んだのです。

「日本勝利」を決めた小村の奮闘

こうしてまず小村は、その3条件、つまり「韓国に対する日本の自由裁量権」「日露両軍の満州撤退」「遼東半島の租借権割譲と長春ー旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)譲渡」を勝ち取りました。
もともと日本の元老や軍部の指導者は、この「絶対的必要条件」さえ満たせば交渉を決裂させるよりも、妥結させたほうがよいと考えており、この時点で小村は手を打ってよかったのです。しかし、ここから、小村は、賠償金と樺太割譲を求めて粘りに粘るのです。そこには国内世論への対応とともに、日本が「戦勝国」であることを世界に示すには、賠償金か領土の割譲をロシアから勝ち取ることが不可欠だ、とする強い決意がありました。当時の世界常識として、それこそが「戦勝」の証とされていたからです。
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こうして8月29日、まさに交渉決裂寸前のところで、日本とロシアの最終交渉が行なわれ、駐日イギリス公使の情報どおり、ウィッテは南樺太の割譲を認めて、ついに交渉は妥結に至りました。9月5日、日露講和条約の正式調印が行われ、ここに日露戦争は名実ともに「日本勝利」という歴史的事実が確定したのです。もし小村の奮闘と粘りがなければ、日本はロシアから南樺太を得ることができず、世界は日露戦争を両者の「痛み分け」と見たかもしれません。

ところが10月、大任を果たして帰国した小村を、国民は誰1人として歓迎しないばかりか、「ロシア側に大幅に譲歩した」として”国賊”呼ばわりする有り様でした。帰国直後、小村には身の危険すらあったため、彼が新橋駅に到着すると、桂首相と山本権兵衛海相が小村の両脇をしっかり挟んで歩みを進めました。小村を銃撃する不逞な輩(やから)があれば、ともに斃(たお)れん、との覚悟だったといわれます。

アメリカ問題」という宿命

日露戦争の勝利により、日本は西洋列強の重圧をはねのけて独立と主権を確保するという、幕末以来の国定を成し遂げました。その意味で、ポーツマス講和会議は、明治維新以来の日本の悲願がついに「近代日本の金字塔」として位置づけるべきものです。

しかし、それは同時に日本にとって、新たな困難に直面せざるをえない時代の始まり、でもありました。ポーツマス講和会議は、ルーズベルト大統領が仲介に立ったことで、それまで外界の問題には関わらないという「孤立主義」を国定としていたアメリカが本格的に国際政治の舞台に登場してきた、ということを世界に示す象徴的な出来事でもあったのです。すなわち、ルーズベルトのこの仲介外交は、アメリカが「世界大国をめざす」という意志表示でもあったのです。いいかえれば、このとき、日本とアメリカは太平洋を挟んでほぼ同時期に、「世界大国の座」をめざして歩みはじめていたのです。
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その後も小村は、「アメリカ問題」についてつねに熟慮を欠かしませんでした。そしてアジア・太平洋に大きく進出し始め世界大国への道をひた走るアメリカに対して、日本は基本的な国家戦略を樹立しておく必要があることにも気づいていました。

けれども、彼に残された時間はほとんどありませんでした。しかも、そのわずかな間に、韓国併合不平等条約の完全撤廃(関税自主権の回復)など、病躰をおして日本外交における最大の懸案事項の処理と解決を、ほとんど1人で成し遂げたのです。その胆力たるや、恐るべしです。だがその小村も無理がたたり、明治44年(1911)11月、ついに燃え尽きるようにしてこの世を去りました。享年57。「運命のポーツマス」から、わずかに6年後のことでした。

幕末以来の国是だった「日本の完全独立」を、日英同盟日露戦争の勝利、そして不平等条約の撤廃によって達成したその偉大な功績を見れば、わが国の歴史上、小村が「最も優れた外交官」の1人であることは間違いありません。