じじぃの「歴史・思想_547_白人侵略・日露戦争」

Treaty of Portsmouth (Russo-Japanese War)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=E4weUf4C2UQ

ポーツマス講和会議

ポーツマス講和会議 ~小村寿太郎と交渉の「舞台裏」~

●知っていましたか? 近代日本のこんな歴史
明治37年(1904年)2月6日、日本とロシアとの間で戦争が勃発しました。日露戦争です。
その主な舞台は、朝鮮半島と、満州中国東北部)の南部でした。戦争が長引くにつれ、旅順港閉塞作戦や奉天会戦日本海海戦などの戦闘で勝利をおさめていた日本の国力は次第に低下していきました。一方のロシアでも革命(ロシア第一革命)が起こり、国内は混乱状態に陥りました。
こうして、日本とロシアの双方で、戦いを続けることが難しい状況となりました。そこで、アメリカのセオドア・ルーズヴェルト大統領の仲介によって、戦争を終わらせるための話し合い(講和会議)が行われることになりました。
それが、明治38年(1905年)8月10日に始められた日露講和会議です。この会議はアメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスという町の近郊で行われたので、ポーツマス講和会議とも呼ばれています。その結果、この年の9月5日に、日本とロシアの間で日露講和条約ポーツマス条約)が結ばれ、18ヶ月間にわたって続いた日露戦争終結しました。
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p09.html

『白人侵略 最後の獲物は日本』

三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行

第6章 翻弄される日本 より

ヨーロッパで緊張が高まり始めた1891年、悪い知らせが日本に届いた。
ロシアが、モスクワ・ウラジオストック間9300キロメートルをつなぐ「シベリア鉄道」を起工させたのである。
このときのロシア皇帝は、アレクサンドル2世の嫡子アレクサンドル3世である。
前皇帝のアレクサンドル2世は、10年前の1881年3月1日に帝政打倒を目指す反体制テロ組織「ナロードニキ(人民の意志)」に爆殺されていた。
アレクサンドル3世は帝位に就くや、直ちに秘密警察オフラーナに命じて、父アレクサンドル2世を爆殺した5人を逮捕して絞首台に送り、父親の仇を取った人物である。
その新帝率いるロシアが極東に迫ってきた。
日本国中に緊張が走った。
更にこの年の5月11日、日本中を震撼させる事件が起こった。
ロシアのニコライ皇太子が、ウラジオストックで行われるシベリア鉄道ウスリー支線(ウラジオストックハバロフスク間)の起工式に出席する途中に日本に立ち寄り、琵琶湖を見学した帰路で沿道を警備していた滋賀県巡査津田三蔵に斬りつけられ、頭部に2太刀を浴びて重傷を負ったのである(「大津事件」)。
    ・
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はニコライ2世の日本への憎悪を利用して日露間の対立を煽り、あわよくばフランスをも日本との争いに巻き込み、両国の兵力を極東に割かせて露仏がドイツに敷いた挟撃態勢を弱めようとしたのである。
ウィルヘルム2世の誘いにニコライ2世がまんまと跳び付いた。
ニコライ2世は直ちに軍艦を日本海に遊弋(ゆうよく)させ、砲口を日本に向けて恫喝してきたのである。
フランスも加わった。
この時の日本にたとえ独仏露の一国とでも一戦交える力はない。
時の外相陸奥宗光は「ここは屈するしか道はない」と遼東半島を清国に返還した。
それから2年後の1897年11月、山東省でドイツ人宣教師2人が殺害される事件が起こると、ヴィルヘルム2世は「ドイツ人居留民の保護」という名目で、軍艦2隻を膠州湾に派遣して清国政府から「膠州湾の99年間の租借権」を脅し取った。
しかし遼東半島には手を付けなかった。ニコライ2世に喰い付かせる餌として残したのである。
ヴィルヘルム2世の狙い通り、ニコライ2世はこの餌にすぐ喰い付いた。
翌1898年、日本に返還させた遼東半島を清国政府から脅し取り、旅順港をロシア太平洋艦隊の根城にして遂に切っ先を日本の脇腹に突き付けた。
さらに「南満州鉄道(旅順・ハルビン間)」の建設にも着手した。
すると、支那の歴代王朝に事大(弱者が強者の庇護下に入り、言いなりになって生き永らえようとすること)してきた朝鮮国王の高宗がが、ロシアのやりたい放題に文句1つ言えない日本を侮り、日本が朝鮮半島近代化のために行ってきた改革をことごとく取り止めて、政治、財政、軍事面においてロシア人顧問を招くなどロシアに事大し始めた。
しかも鎮海湾の港町馬山浦をロシア人居留地の建設地として差し出した。
慌てた日本英府は周辺の土地を買い占めてロシアの居留地建設を阻止したが、高宗は漢城(ソウル)にあるロシア公使館に移って政務を行うようになった。
日本はロシアとの戦争に備えねばならなくなり、国家予算に占める軍事費の割合は30パーセントから50パーセントの間を推移し続けたが、国民はこの重税に耐えた。
    ・
ロシアの脅威が目前に迫る中、日本に思わぬ味方が出現した。
アジアでの権益をロシアに脅かされるのを恐れたイギリスが、日本を利用しようと同盟締結を呼びかけてきたのである。
その約定は「日英どちらかが2ヵ国以上と交戦した場合、もしくは敵国に他国が便宜を図った場合、もう一方は参戦の義務を負う」というものであった。
その「日英同盟」が1902年に締結されると、イギリスは日本の戦費調達の手助けを始めた。
心強い味方を得た日本であったが、翌1903年に足元を揺るがす事態が起こった。
満州を下ってきたロシア軍が鴨緑江(現在の支那北朝鮮国境)に迫ると、朝鮮政府は鴨緑江河口の港町竜岩蒲をロシアに差し出したのである。
これは日本への進入路を開くに等しい行為であった。
日本政府の危惧どおり、ロシアは朝鮮から租借した竜岩蒲に軍港の建設を始めた。
日本政府はロシアに猛抗議したが、ロシア政府は日本の抗議を無視して北緯39度以北までの領有を主張して、軍を南下させる動きを見せた。
同年12月、ロシア軍の動向を探っていた密偵から「シベリア鉄道の全線開通まで残り半年となった」という報告が日本政府に入った。
シベリア鉄道が完成して複線化されれば、東ヨーロッパの100万人を擁するロシア正規軍は、1週間で満州に到着できるようになる。
そうなれば日本に勝ち目はなかった。
かくして日本は、国土68倍、人口2.8倍、陸軍常備兵力15倍、保有戦艦2.3倍、国家収入8倍の大国ロシアとの戦争を決意し、1904年2月6日にロシアに国交断絶を通告した。
同日、連合艦隊佐世保港を出港して、ロシア旅順艦隊の巣である旅順港を目指し、巡洋艦5隻は別動隊として陸兵2000人を乗せた3隻の輸送船を護衛したあと、仁川港沖で遭遇したロシア巡洋艦ワリャーグと砲艦コレーツを砲撃して大破させた。
ロシア側の戦死者は226人、日本側は死傷者ゼロという幸先の良い出だしとなったが、その後は連合艦隊の拙攻が相次いだ。
    ・
1905年、東郷平八郎がその進言を聞き入れて津軽海峡への北上が決定しかけたとき、遅れて会議に加わった参謀長島村速雄のみが異を唱えた。
その根拠は、
  一、バルチック艦隊カムラン湾を出港したあと石炭を搭載する寄港地がない。
  一、リバウ港から3万3千キロの大航海を続けてきたバルチック艦隊は艦が痛み、乗組員の疲労も極限に達している。太平洋側に迂回する余裕はない。
よってバルチック艦隊は必ず対馬海峡を通る、というものであった。
東郷は島村の意見を採択して5月28日までは対馬海峡に留まり、それでもバルチック艦隊が現れないときには津軽海峡に移動することを決断した。
それから3日後の5月27日午前4時45分、五島列島南西沖の東シナ海で、哨戒に当たっていた汽船信濃丸が対馬海峡に向けて東北東に航行中のバルチック艦隊を発見して、連合艦隊に打電した。
    ・
三笠が3発目に放った砲弾は、旗艦スワロフの前部甲板に命中し、4発目が左舷装甲を貫通して艦内で爆発し、大火災が起こった。
三笠に後続する敷島、富士、朝日、日進も、アレクサンドル3世、ボロジノ、オリョール目掛けて砲撃を開始すると、たちまちロシア第1戦隊4隻は火達磨になった。
バルチック艦隊の混乱はさらに続く。
紅蓮の炎に包まれた第1戦隊4隻が、単縦陣を組むために左舷側を並行する第2戦隊の前に出ようと速力を増したため、第2戦隊の旗艦オスラービアは追突を避けるために減速せざるを得なくなった。
その間、連合艦隊第1戦隊に次いで、第2戦隊の巡洋艦隊出雲、吾妻、常磐、八雲、浅間、磐手が回頭を開始した。
    ・

バルチック艦隊の損害は、38隻中撃沈19隻、逃走中に沈没1隻、自沈1隻、鹵獲(ろかく)5隻、抑留8隻で、リバウ港を出港時に1万2800人いた乗組員のうち、戦死が4700人、捕虜は6100人で、負傷者数は不明である。

なお、ウラジオストックまで逃げ切った艦艇は、巡洋艦アルマーズ、駆逐艦グローズヌイ、ブラーヴィ、輸送船1隻の4隻のみであった。
対する連合艦隊の損害は、水雷艇が3隻沈没しただけで、戦死117人、負傷583人と、日本側のパーフェクト・ゲームとなった(『海の史劇』吉村昭 新潮文庫 参照)。
    ・
何とか講和会議まで漕ぎつけた日本政府が締結しなければならない必須の条件は、
  一、ロシアは日本の韓国に対する保護・指導に干渉しないこと
  一、ロシア軍の満州からの撤退と清国への占領地の返却
  一、ロシアが清国から得ている旅順、大連の租借権および、南満州鉄道(旅順、ハルピン間)の日本への譲渡
の3点である。
しかしこれだけでは、重税に耐え、一家の働き手を戦争で失った国民が、暴動を起こす可能性が極めて高かった。
そのため、
  一、日本が戦争に費やした戦費と損害に対する賠償金の支払い
  一、樺太全島の日本の領有
の2条件も認めさせねばならなかった。
しかしこの2条件を提示すれば、戦争を継続する余力があるロシアを刺激して、その場で交渉が決裂する恐れがあった。
    ・
1905年、8月10日からポーツマス市の海軍工廠で始まった講和会議で、日本側が提示した必ず締結しなければならない3条件についてロシア側に依存はなく、比較的容易に合意に達したが、「賠償金」と「樺太の譲渡」に関しては話し合いは平行線を辿った。
ロシア側のセルゲイ・ウィッテは落とし所として、樺太の北緯50度を境界線として2分割する案を出した。
この提案に対して日本の小村寿太郎は、日本が占領している樺太の北半分を返還する見返りとして、12億円の賠償金を要求した。
この小村の要求にウィッテが同意して、双方合意に達しかけたが、ニコライ2世からウィッテに「一握りの領土も1ルーブルの賠償金に日本に与えてはならぬ」と横やりが入った。
    ・
そのころウィッテらロシア代表団は、ニコライ2世から届いた妥協案が「南樺太の譲渡」だけに止まっていることに失望し、今までの小村の強硬な態度から見て、このような回答書を日本政府が受け入れるわけもなく、戦争継続は必至と見ていた。
そのため小村がロシア側の回答を拒絶すれば、その場で随行員に合図を出して、本国政府に「交渉決裂」を打電する手はずを整えていた。
それは、満州で日本軍と対峙するロシア軍の即時攻勢に繋がることになっていた。
現地時間8月29日午前10時、最後の会議の冒頭で、ウィッテは日本側の要求に対する回答書を手渡した。
そこには「ロシア政府はロシア軍捕虜の食費・宿泊料以外、日本への一切の金銭の支払いを拒否する。なお日露友好のため、北緯50度以南の樺太への譲渡を同意する」と記されていたのである。
一読した小村は表情を消したまま、新たな作成した日本政府の要求書をウィッテに手交した。
そこに記されていた日本政府の「賠償金の要求撤回」と「樺太の領有は北緯50度以南に止(とど)める」という2つの譲歩案を書き人して顔を紅潮させたウィッテは、声が上ずるのを抑えるように「日本政府は皇帝陛下の主張を受け入れ、賠償金の要求を取り下げた。ならば、ロシア帝国は貴国の譲歩案を受け入れざるを得ない」と述べて日本側の妥協案を受け入れ、既(すんで)の所で交渉における敗北は回避された。
そのあと両国代表団は議事録作成に取りかかり、署名を終えて参会した。
翌日からは「満州からの日露両軍の撤収時期」や「捕虜の返還」など詰めの話し合いが行われ、9月5日に講和条約に調印して日露戦争終結し、アジアからロシアの脅威は去った。
が、講和内容が報じられるや、日本国民の怒りは爆発した。
全国各地で、講和条約締結に反対する抗議集会が開かれ、東京では、集会終了後に聴衆が暴徒となって都内各所でキリスト教会や派出所に火を放ち、講和条約締結を評価した新聞社を襲撃した。