じじぃの「歴史・思想_658_近代史の教訓・乃木希典(後編)」

明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o

乃木希典 奇跡を起こした将軍


難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍

2022/01/02 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
明治37年(1904年)~明治38年日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、本当はそうではありません。

旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。

日本軍は日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。

明治37年8月19日、第一次総攻撃開始。旅順要塞が強固なのに気づいた乃木将軍は9月1日には塹壕を掘って接近する「築城攻撃」に切り替えました。これは要塞戦では極めて有効であることを世界に先駆けて示すものでした。
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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第14章 乃木希典(後編)――自らの死で示した日本人への警鐘 より

「名将の資質」

「将軍の右に出る者なし」と、日清戦争で指揮をとった将官の中では最大級の賛辞を受けて乃木希典が帰国したのは、明治28年(1895)4月のことでした。野戦指揮官としての乃木の名声が、当時から国内だけでなく海外にまで鳴り響いていたことを、近年のいわゆる「乃木愚将論」は無視しています。

休む間もなく同年9~10月、乃木は日清間の講和条約で日本領となった台湾の平定作戦に従事した後、翌明治29年(1896)10月、桂太郎の後任として第3代台湾総督に就任しました。69歳の老母・寿子を連れての赴任は、「台湾の土にならん」との乃木の覚悟の程を示しています。

しかし、赴任後すぐに寿子が疫病にかかって亡くなるという悲劇に見舞われた上に、悪徳商人や汚職官吏が横行する「政治の世界」は潔癖な乃木には合わなかったようで、明治31年(1898)2月、乃木は後事を児玉源太郎に託し、帰国せざるをえませんでした。

台湾総督を辞任し帰国した乃木は、7ヵ月の休職の後、同年10月、香川県善通寺に新設された第11師団長に任じられます。乃木はこの新設の師団の将兵を厳しく鍛えると同時に深い慈愛をもって接したので、多くの将兵からほとんど「無限に近い信頼」を得るに至ったといわれます。

真夏の炎天下、師団の工兵隊が橋を架ける訓練をしていた日のことです。気づくと乃木が対岸の河原に立ち、こちらを見つめています。やがて正午になり、兵士たちが弁当を食べると、乃木も握り飯を頬張り、兵士が河原に寝転んで休息をとれば、乃木もそうしました。作業再開後、乃木は再び午前と同じく河原に立ち、夕方作業に終わるまでその場を立ち去りませんでした。最初は「監視されている」と思って緊張していた兵士たちも、乃木が自分たちとあえて困苦をともにしようとしているのだと気づき、感激しない者はいなかったといいます。

この第11師団こそ、のちに日露戦争最大の激戦となった旅順攻囲戦において、第3軍司令官乃木希典の下で勇戦敢闘する師団の1つとなるのです。

わが身はつねに兵士とともにある――乃木自身が「理想」として己に課した指揮官の姿は、日本人が愛する「名将」像そのものであったといえましょう。そして乃木の軍人、指揮官としての最大の長所は、作戦や戦略を練るといった以前の、この「統率力」という点にありました。これは当代随一であり、文字どおり「乃木の右に出るものはいない」と同時代の軍人は口を揃えていったのです。

「明治の精神」に殉じる

旅順陥落後、水師営で乃木とステッセル日露戦争の際の旅順司令官)の歴史的会見が行われました。このとき、前述のように、乃木はあえてステッセルに帯剣のままでの降伏調印を許し、世界にその「武士道精神」を称えられたことは有名です。司馬氏はこれを「芝居じみたこと」と批判していますが、そこには、降伏に際しては「敵将に武士の名誉を保たしめよ」との明治天皇の勅令が伝えられていたことを忘れてはならないでしょう。そして明治天皇とその御心(みこころ)を体した、乃木のまさに「日本人のこころ」に、このニュースを聞いた世界中の人々が感動したのです。

すでに見たとおり、明治38年(1905)9月、外相小村寿太郎の頑張りでポーツマス講和会議がなり、第3軍にも凱旋命令が出されて、翌年1月、乃木は故国の土を踏みました。東京市民の熱狂的な歓迎を受けた後、乃木は宮中で行なわれた天皇への復命書の朗読で、明治天皇に対し、多くの戦死者を出したことを深く謝罪し、「かくの如き忠勇の将卒を以てして、旅順の攻城には半歳の長月日を要し……」と自分の責任を重ねて詫び、天皇の御前でむせび泣いたといわれます。

以後、乃木は、「陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順に失い申す」ことを「終生の遺憾」とし、残されたあと6年余りの命を日露戦争で戦死した将兵の魂を慰め、また遺族と傷病兵のためにできる限りの援助をすることに捧げたのです。
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明治天皇崩御ののちの大正元年(1912)9月13日、「なぜか将軍だけは弾が当たらない」と戦場で兵士たちから不思議がられた乃木にも、ついに最期のときがやってきました。

午後8時、明治天皇のご遺体を乗せた御霊璽(れいじ、棺を乗せた車)が天皇崩御を悼む市民が詰めかける宮城を出発、合図の号砲が放たれると、自宅にいた乃木は宮城の方角を拝し、古式に則って切腹明治天皇のあとを追って自決を遂げました。享年64。妻静子も行をともにして自刃しました。乃木の殉死については、これまで多くの碩学がさまざまな意味づけをしてきました。しかし、あえてそこに私なりの解釈を付け加えると、そこには後世に向けての「警醒(けいせい)」という意味が込められていたのではないかと思います。
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しかし、日露戦争後のこの水脈は再び地下に没しはじめ、この国からはそうした気概が急速に失われようとしていました。だとすれば、松陰の死が多くの志士たちを奮起させたように、自らの死をもってこの国の人々を覚醒させたい――。それが「明治の武士」としての乃木希典が貫いた天皇と日本国民に対する最後の奉公の姿だったのではないでしょうか。