じじぃの「歴史・思想_643_逆説の日本史・明治時代の終焉・乃木希典」

殉死 乃木将軍の場合 (注)解釈ネジ曲がってる恐れ濃厚です

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Og0CfD7jZhc

乃木希典と妻静子


乃木希典将軍「遺言条々」と「殉死」

2018-04-18 隼jpJAPAN
明治45年(1912)9月13日、日露戦争の輝ける英雄、乃木希典将軍(63歳)は明治天皇に殉じて自刀しました。
その日は明治天皇の御大葬の日でありました。

式発表は自刃の全貌を明らかにしていなかったため、新聞報道の一部には食い違いがありました。しかし全面的な公式発表がない状況でも、大衆は殉死という事件に湧き立ち、賛否両論が入り乱れました。すでに徳川幕府によって殉死が禁止されて以来、約250年を経ているときに、乃木将軍の行為は時代錯誤であると考える人々もいました。
もと学習院の生徒であった作家・志賀直哉は「…馬鹿な奴だという気が、ちょうど下女かなにかが無考えになにかしたとき感ずる心持ちと同じ様な感じ方で感じた」と日記に書いています。
しかし民衆や新聞の大多数は乃木の切腹に感動し、明治天皇への至忠を貫いた崇高な行為として賞め称えたそうです。
https://ryuzoji358.hatenablog.com/entry/2018/04/18/095238

『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第3章 「明治」という時代の終焉 より

殉死の際に乃木が自ら遺言書に記していた「大罪」とはなにか

検視報告によれば、2人は自邸の居間において壁に掛けられた明治天皇御真影(肖像写真)の前で正対し、乃木は軍刀で割腹したのち剣を持ちかえて頸動脈を切断し絶命した。静子は護身用の懐剣(かいけん)で心臓を突き刺した死んだ。かたわらに乃木の遺言書「遺言条々」と辞世の歌が置かれ、静子も辞世を残していた。

  うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
                (乃木希典
  いでまして 帰ります日の なしと聞く 今日のみゆきに あふぞ悲しき
                (乃木静子)

意味は訳さずともおわかりになると思うが、問題は「遺言条々」のほうである。なぜ、乃木は殉死を決意したのか。現在も乃木神社に保管されている遺書は、「条々」と題しただえあって箇条書きになっている。その第一項の書き出しは「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ自殺候段恐入候儀其罪ハ不軽存候」であり、現代語に訳せば「自分はこのたび畏(おそ)れ多くも天皇陛下のお後を追わせていただくため自殺をいたします。私の罪は軽くありません(明治10年西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱)」である。では、その罪とはなにか。乃木が第一項で述べているのは明治10年西南戦争のおり、田原坂(たばるざか)の激戦で「軍旗」つまり連隊旗を敵に奪われてしまったことである。たかが旗と言ってはいけない。これは天皇から連隊の象徴として下賜されたものなのである。しかし、いくら重要なものであっても陸軍の優秀な士官となった乃木が自殺をしてまで償うようなものでも無いし、田原坂の激戦は優秀な士官でもそうした失態を招くような状況であった。いわば不可抗力であり、だからこそ乃木もその後ドイツ留学を許され大将にまで昇りつめることができたのだ。しかし乃木はそれをずっと大きな罪と感じ、死に場所を探していたと告白している。

司馬遼太郎(しばりょうたろう)が「乃木愚将論」を展開したことで一時乃木人気は地に落ちたが、戦前の乃木は庶民にも人気のある将軍であった。前にも述べたように、旅順(1904年からの日露戦争で日本は5ヵ月間、1万2085名の大きな犠牲を払い要塞を陥落させた)要塞陥落後の敵将ステッセルに対する寛容で武人の鑑とも言うべき態度は多くの国民の共感を呼び、唱歌水師営の会見』が作られたほどだ。この歌は昭和20年以前に教育を受けた人間ならば知らない人はいないというぐらい有名なものである。しかしそうした人気抜群の頃の乃木でも、唯一批判されたのが旅順攻略戦で「多くの将兵を死なせた」ことだ。もっともこれも、後に確立された軍事学の常識で言えば「少ない戦死者で見事に攻略した」という評価になるのだが、戦国時代にも無かった万単位の人間が戦死するという大きな悲劇に直面した日本人はそうは思わなかったし、乃木自身もそれを自分の罪と考えていた。だからこそ長男も次男も危険な場所に配置し、2人が戦死すると「少しは申し訳が立った」と述べたのである。だが、そのことは遺書には書かれていない。乃木にとって少佐時代の不可効力的な事件こそが、その後の人生を決定したもっとも大きな軍人としての失策だったのである。

この遺書宛名の1人に、静子夫人が入っている。つまり、当初乃木は1人だけで死ぬつもりだったのだ。それは当然で、広い意味ではすべての日本人は天皇の臣下と言えないことは無いが、やはり陸軍大将としての乃木は他の日本人とは違う。そもそも天皇大日本帝国の統治者であると同時に陸海軍の大元帥つまり総司令官でもあるのだから。戦国時代の殉死の例をみても殉死者の妻が一緒に死んだというケースはあまり無い。だから、その報に接した人間の中には次のような感想を漏らす人もいた。

  「おい、本当だ」
  と、その記者はすぐ電話の前から、皆の方へ向かって大声で叫んだ。
  「下女が電話口へ出て本当です、と言うんだ。奥様もやはり一緒だそうだ」
    ・
          (『明治大正見聞史』生方敏郎著 中央公論新社刊)

生方敏郎(1882-1969)はいわゆる「文人ジャーナリスト」のハシリとも言うべき人で、群馬県沼田町の出身。早稲田大学英文科卒業後、『東京朝日新聞』の記者を務めた。観察力に富んだ実録エッセイは得意中の得意で、この『明治大正見聞史』も名著と評価が高い。引用したのは大喪当日の夜の話である。朝刊の締め切りが近付き、殺気立った新聞社内に生方は詰めていた。そこへ電話がかかってきたが、受けた記者は最初は「悪戯(いたずら)も言い加減にしろ」と電話を切り、もう一度かかってきた時は「馬鹿」と一言怒鳴りつけて電話を切った。つまり、新聞社の中ですら「乃木自殺」などということが一笑に付されるようなあり得ない情報だったことがわかる。

ところが、通信社の人間が念を押してきた。ちゃんと伝えたからあとで文句をイア内でくださいという確認である。さすがにおかしいと思った面々から乃木大将の家に電話してみたらどうかというアイデアが出た。ちなみにこの時代、電話のある家はそれほど多くないが、政府高官には緊急呼び出しがかかることもあるので電話は必ずあった。そこで1人が電話をしてみると、「下女が電話口に出た」。そこから引用部分に続くのである。ところがその後に、大騒ぎになった編集部内にたまたま上がってきた新聞の印刷を担当する「若い植字工」が、「乃木大将は馬鹿だな」と大声で叫んだ。生方が驚いていると、そのあとに決して若くもない「夕刊編輯(へんしゅう)主任」が、「本当に馬鹿じゃわい」と続けた。もちろんそれは乃木大将のやったことが愚挙だと言っているのでは無い。このあたりは現代の感覚とまったく同じである。