じじぃの「歴史・思想_642_逆説の日本史・明治時代の終焉・明治天皇」

明治天皇

江戸人物事典 より
日本最初の立憲君主
1852~1912 (嘉永5年~大正元年)。在位1867~1912。
日本最初の立憲君主
名は睦仁(むつひと)。幼称は祐宮(さちのみや)。孝明天皇より第二皇子。67年(慶応3)孝明天皇皇位を継承して、王政復古により新政府を樹立。68年明治と改元した。翌10月、京都から東京の江戸城に入り、日本最初の近代立憲君主となった。
全国を精力的に行脚、94-95年の日清戦争では広島の大本営に起居し統帥にあたった。1912年7月崩御

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第3章 「明治」という時代の終焉 より

「日本史の最大の特徴は天皇の存在である」という重要な事実

武士たちは実質的には天皇の権力を奪いとったのだが、形の上では「天皇家から任命された武士の代表の征夷大将軍(あるいはその番頭の執権)が天皇の代理として日本を統治する」という建前を貫かざるを得なかった。自分たいは決して天皇にならないからである。だからこそ、約700年にわたった武家政治の終わり、つまり幕末にはその建前を逆手にとって「幕府がお預かりしていた日本の統治権天皇家にお返しする」つまり大政奉還という形で決着をつけることが可能だったのである。
またこの流れを知っていれば、その「回り道」を拒否してまったく新しい権力を築こうとした織田信長のユニークさも明確になる。神の子孫である天皇を超えるには、自分が神になるしかない。だから信長は自己神格化をめざした。日本の「ルール」の中では、それをやらないと天皇家に取って代われないのである。頭がおかしくなったのでも、思い上がったのでも無い。そうえざるを得なかったのだ。それゆえ兄貴分の信長の失敗を見ていた徳川家康は宗教面のブレーンとして専門家の天海僧正(てんかいそうじょう)を採用し、最終的に自分を東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神に祀り上げることに成功したのである。
おわかりだろう。「日本史の最大の特徴は天皇の存在である」ことがわかっていなければ、日本史などわかりようがないのである。

晩年は糖尿病と慢性腎臓炎に悩まされていた明治帝

大日本帝国の成立もそうである。近代的な西欧型の国家を作るためにもっとも重要なことは、「万人平等の市民社会」をどうやって建設するかだ。これは、朱子学を基本思想としている朝鮮国(大韓帝国)や清帝国では絶対に実現不可能な課題である。しかし大日本帝国は、というより江戸時代以来いわゆる「勤王(きんのう)の志士」たちは、その朱子学を逆手にとって神道と一体化させることによって「四民平等(しみんびょうどう)」という困難な課題を達成した。言うまでも無く、大日本帝国憲法では「大日本帝国天皇が統治する国家である」と規定している。したがってこの時代の日本史つまり大日本帝国史においては、天皇がどのような人物でどのように活動したかということも重要な分析事項になる。
現在も日本国憲法において天皇は「国民統合の象徴」であるが、こうした天皇重視の伝統が日本国憲法が将来改正される時(必ず改正されるだろう)に変わるかどうかはわからない。しかし、それ以前の歴史については、明治時代の終わりつまり歴史の分岐点を、明治天皇崩御でとらえなければならないだろう。そこで少し時間を戻して、明治天皇とはどういう人物であったか少し述べよう。
こうした時、まず百科事典の客観的で通説的な評価を紹介するのが『逆説の日本史』の基本的なやり方だが、明治天皇に関する記述はあまりにも多く、全部を引用しているとそれだけでこの節が終わってしまうので、私がもっとも「簡にして要を得」ていると考える明治天皇の履歴を紹介しよう。
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さて、明治天皇には『明治天皇紀』という宮内省(当時)が細かく記録した行動記録がある。また、身長等のデータもある。伝記『明治天皇』(新潮社刊)の著者であるドナルド・キーンは、そのダイジェスト版とも言うべき『明治天皇を語る』(新潮新書)の中で、天皇の身長について「崩御の当日に皇太后の許しを得て計られた結果によると、身長は5尺5寸4分、約167センチメートルでした。当時としては大柄です。残念ながら体重は測られませんでした」と述べている。ちなみに、私の身長も167センチである。残念ながら現代の基準では決して「大柄」では無いが。
では、明治天皇の体重はどうだったのか? これについては面白いエピソードがある。ドナルド・キーンによれば、明治天皇は新聞を読むことが好きでは無かったが、そうなった理由はある新聞に「帝の体重は75キログラム」というデタラメを書かれたことだと言うのだ。「朕(ちん)はそんなに太っておらんぞ」ということだったらしい。実際、天皇は若いころは乗馬が好きでよく体を鍛えていた。子供のころは京都で女官たちに育てられていたのだが、東京へ移ってからは帝として必要な胆力を鍛えていただくという方針で、江戸無血開城の時に活躍した元幕臣山岡高歩(号は鉄舟、通称は鉄太郎)らが侍従を務めた。その影響で、華美を嫌い質素倹約を旨とする性格に育った。前にも述べたが、自分の贅沢のために国防費を削って税金で閤か宮殿を造らせた清の西太后(せいたいこう)などとはまるで正反対の生活態度であった。あまり指摘されないことだが、当時日本にやってきた清国や朝鮮国の留学生たちも、自分たちの国の「皇室」と日本を比較して、やはり日本を見習うべきだと考えたことは想像に難くない。

体重の話を続けると、天皇は晩年は肥満体だった。甘いものが好きだったからである。またいわゆる大酒飲みで、若いころは日本酒、晩年はワインを好んでいた。皇太后が身長の計測は許しても体重を測らせなかったのは、そのためかもしれない。記録に「重い体重」が残ってしまうからである。崩御は満年齢で60歳を迎える年の7月30日(誕生日は11月3日。戦前はこの日は明治節という祝日だった)だが、便年尾数年間は糖尿病と慢性腎臓炎に悩まされていたという。時々昏睡状態に陥ることもあったらしい。糖尿病の影響で歯も相当弱っていたようだが、歯医者に罹(かか)ろうとはしなかった。いや、歯医者どころか明治天皇は「自分の健康にまったく無関心でしたし、生涯大の医者嫌いでした」(引用前掲書)だったのである。その理由についてドナルド・キーンは、「自分は大丈夫だろう、自分のような丈夫な人間は医者とは関係ないだろうと思っていました」(引用同)と述べているが、この点について私には異論がある。単なる健康過信で「医者嫌い」になったのでは無く、西洋医学が嫌いだったのではないだろうか。私がそう考える理由は、拙著『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』を読まれた方にはおわかりになるはずである。

軍服が破れても靴に穴があいても修理して使い続けた「倹約家」

ドナルド・キーンの『明治天皇を語る』によれば、たとえ御所(ごしょ)の照明も電灯も好まず、可能な限り蝋燭(ろうそく)を用いた。蝋燭には大きな欠点があって、立ち上がる煤(すす)で天井や壁が汚れてしまう。臣下は困ってたびたび諫言したが、受け入れられなかったという。また、日清戦争の時広島に臨時大本営が置かれ天皇も現地にあった木造2階建ての家に数ヵ月滞在したのだが、今で言う2DK程度の部屋で昼は寝室のベッドを片付け執務室にして、食事もそこで取ったという。部屋があまりにも殺風景なので臣下が絵など壁に掛けてよろしいでしょうかと進言したところ、天皇は「戦っている兵士たちにはそういうことができない」と断わり、安楽イスや冬の暖炉の使用を勧めても拒否したという。また軍服が破れても継ぎを当て新品には取り替えず、靴の裏に穴があいた場合はそれを修理に出させたという。臣下は修理するというより新しい靴を買ったほうが安いと言いそれは事実だったのだが、天皇は修理して使うということにこだわり続けた。
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明治天皇がいわゆる名君であったということは間違い無いところで、それは明治政府に批判的だった人間も評価する部分であった。明治を代表するジャーナリストであり歴史家でもある徳富蘇峰(とくとみそほう)は、織田信長から始まる日本通史『近世日本国民史』の著者としても知られているが、この膨大な著作を書こうとしたそもそもの動機が、この明治天皇の時代をほぼ同時代人(蘇峰は1863年文久3>生まれ)として生きた蘇峰が、この明治天皇の時代をぜひ書き残しておきたいというものだった。