乃木希典(のぎまれすけ)
世界大百科事典 より
1849-1912(嘉永2-大正1)。
明治期の代表的陸軍軍人。海軍の東郷平八郎とともに〈聖将〉と呼ばれた。
長州藩士の出身。吉田松陰に心服し,伯父玉木文之進の塾に学ぶ。藩の新軍に加わり第2次征長戦争に山県有朋の指揮下で戦い,1871年(明治4)新陸軍の少佐となり,西南戦争に歩兵第14連隊長心得として参加,軍旗を薩軍に奪われ一生の恥辱とした。
86年ドイツに留学。日清戦争に山路元治第1師団長の下,歩兵第1旅団長として出征。同師団は旅順要塞を1日で攻略したが,占領時の大虐殺事件は国際的非難を浴びた。第2師団長として台湾征討,96年台湾総督となったが統治に失敗して98年辞職。1904年日露開戦後,休職中から起用されて大将・第3軍司令官となり,旅順攻撃を指揮,3回の総攻撃に失敗し,半年の攻囲戦と6万余の死傷者を出したのち攻略,自身も2児を戦死させた。
戦後07年学習院長として皇長孫裕仁親王の教育に従事,信任が厚かった明治天皇大葬の12年9月13日夜,妻静子とともに自決した。若いころは遊蕩の限りを尽くしたが,ドイツから帰国後は謹厳質素な生活を送り,武士道の体現者として神格化された。
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第13章 乃木希典(前編)――松陰の志を継ぐ宿命を己に課して より
「さん」づけで呼ばれた英雄
日本史上、その事績が伝記や小説などで繰り返し語られる人物は大勢いますが、親しみを込めて「さん」づけで呼ばれてきた日本近代史の英雄となると、そう多くはありません。その1人が西郷隆盛です。西郷が醸しだす質朴で剛毅、かつ包容力に満ちたイメージは、長らく日本人の理想の英雄像とされてきました。
しかしもう1人、明治、大正、そして敗戦後も昭和30、40年代頃まで、西郷と同じように「さん」づけで呼ばれ、日本人の「こころの英雄」として国民に敬慕されてきた人物がいました。乃木希典(まれすけ)です。日本史の一大結節点である幕末から明治にかけては、能力的に傑出した人物が数多く排出した時代でしたが、国民が真に愛したのは、大久保利通でも伊藤博文でもなく、「西郷さん」であり、「乃木さん」だったわけです。
最近は龍馬人気に押されてさほどではありませんが、いまも西郷は国民の間で敬愛されています。しかしこれに比べ、近年、乃木の評価はあまり芳しくありません。現在流布している一般の乃木像は、ただ朴訥(ぼくとつ)なだけで、おまけに「戦(いくさ)下手」の無能な指揮官というものでしょう。いわゆる「乃木愚将論」です。戦後におけるこうした評価のものになっているのが、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』であるといえるでしょう(そして司馬氏がその評価に際し大きく依拠したのは、戦前の”一次資料”として知られる谷寿夫『機密日露戦史』でした)。
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とはいえ、最近の研究ではこうした「乃木愚将論」に対する説得力ある反証が唱えられるようになってきました(とくに桑原獄『乃木希典と日露戦争の真実』(PHP新書、2016年)が詳細に論じていますが、同書には私、中西輝政も短い紹介文を寄稿しています)。私も乃木が戦下手の指揮官であったとは思いませんが、ここで専門的な戦史の講義を語るつもりはありません。まず何よりも大切なのは、乃木とてわれわれと同じ人間だったという視点でしょう。
その上で私は、乃木を「明治日本で最も劇的な生涯を送った人間」と捉えています。というのも、乃木はその人生で、何度も本当に劇的な転機を重ねてゆくからです。なぜそうなったのか。それは明治という時代が、乃木希典という人間を必要としたから、としかいえないところがあります。だからこそ、かつての日本人は、乃木の「明治の精神」、いいかえれば「日本人のこころ」の精髄を見出し、たまらない親愛と愛惜の情を注ぐことになったのでしょう。
小倉城1番乗り
嘉永2年(1849)、乃木希典は長州の支藩・長府藩士乃木希次の3男として、麻布日ヶ窪の長府藩邸(現・六本木ヒルズ)で生まれました。
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元治元年(1864)、乃木は晴れて玉木文之進(吉田松陰の叔父)に入門を許され、以後4年間もの間、玉木に師事することになります。それは乃木の生涯における一度目の大きな「転機」だったといえましょう。翌年、乃木は萩の藩校「明倫館」に通うようにもなりました。
すでに6年前に、松陰は安政の大獄で刑死していましたが、玉木は乃木に対して松陰直筆の「士規七則」を与え、松陰の精神を伝授しようとしました。「士規七則」は武士の心得を記したもので、人たる所以(ゆえん)、士道のあり方、天皇への忠義などが説かれています。こうして乃木は玉木を通じて間接的ながら松陰のの志を受け継ぎ、松陰を「生涯の師」とするようになったのです。乃木の父希次はそんな息子に対し、ある1冊の本を自ら筆写して送り、父親としての愛情を示しました。山鹿素行の『中朝事実』です。
山鹿素行は江戸前期の儒学者・兵学者で、多くの儒学者が明・清を「中華」として傾倒しているのを批判し、万世一系の天皇を戴く日本こそ「中朝」であるとして、『中朝事実』を著わしました。そもそも松陰は、その素行に始まる山鹿流兵学を家学とする吉田家の後折りとして鍛えられた人でした。松陰が唱えた「士規七則」も、素行の『中朝事実』がもとになっています。乃木もまた『中朝事実』を生涯、座右の書として、戦場に赴く際も肌身離さず携行したといわれます。
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慶応2年(1866)6月、当時18歳(数え年)の乃木に初陣の機会がやってきました。幕府の大軍が長州藩領に攻め寄せ、四境(しきょう)戦争(第二次長州征伐)が勃発したのです。当然ながら乃木は、長州藩「報国隊」の一員として出陣し、九州小倉口で戦いました。この方面の指揮官は、すでに見たように、松陰の愛弟子・高杉晋作です。小倉口の幕府軍5万に対し、奇兵隊を主力とする長州軍は、わずか1千にすぎませんでした。
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そしてこの戦いで「小倉城1番乗り」を成し遂げた男こそ、初陣ながら、晋作から大砲1門と兵十数名を預かる小隊長に抜擢された乃木希典でした。
甦る松陰の精神
もっともその後、中佐、大佐を経て少将まで累進する乃木は、軍旗喪失(西南戦争での混乱の中で明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われてしまう)で受けた恥辱を忘れるかのように、料亭で大酒を呑む毎日を送りました。当時、高級将校が部下を引き連れて豪遊することが「軍人の嗜(たしなみ)」とされていた時代とはいえ、乃木のそれは少々度がすぎていたようです。このときの乃木の心情を推し量るのは難しいですが、「死に場所を失った者」に特有の、自暴自棄とさえ見える、大いに鬱屈したものを抱えていたことは間違いないでしょう。
そんな乃木の態度が一変したのは、明治21年(1888)、ドイツ留学から帰国した後のことでした。ドイツから帰った乃木は自宅でも常時軍服を着用し、酒杯を遠ざける「陸軍一の堅物な男」になっていたのです。あまりの変貌ぶりに驚いた周囲が理由を尋ねても、乃木はただ、「感ずるところあり」と答えるのもでした。一説には、留学でドイツ軍人の質実剛健な生活ぶりに感化された、といわれますが、私は違うと思います。乃木のドイツ滞在は1年余りにすぎませんでしたが、そこで、西洋文明の本質に触れたからではないかと思うのです。
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かくしてドイツ帰国後、乃木は破壊を事とする軍隊に、実はなくてはならないものがある、それは精神、すなわち「日本人のこころ」であり、自分はそのことをうねに意識して「日本人の模範」たろうと決意したのです。そして、厳しく自己を律し、一段と研鑽に励みました。国を挙げて西洋文明の輸入を急ごうと狂奔しているときに、乃木は時代に逆行するかのように、日本古来の武士が大切にしてきた徳義を重んじる生き方を身をもって示そうとしたのです。幾多の「転機」を経て、ここに乃木は「松陰の志」を受け継ぐ者、という自らの原点を見出し、それを「己の宿命」として課すことを深く是認するに至ったのです。
明治27年(1894)、日清戦争が勃発すると、乃木は歩兵第1旅団を率いて出生します。乃木の賊する第2軍第1師団は、堡塁(ほうるい)と砲台に守られた旅順要塞をわずが1日で攻略。その後も乃木は第1混成旅団を指揮し、各地を転戦しました。とくに「害平(がいへい)の戦い」では、桂太郎の指揮する第1軍隷下の第3師団を包囲する清国軍を撃破して桂の師団を救出するなど、目覚ましい活躍を重ね、名将ぶりを世界に示しました。
明治28年(1895)4月、講和条約が調印され日清戦争が終結すると、乃木は「(乃木)将軍の右に出る者なし」という最大級の賛辞を受けて凱旋帰国しました。運命の日露戦争の10年前のことでした。