じじぃの「歴史・思想_651_近代史の教訓・桂太郎(前編)」

日清戦争】蓋平の戦い 海城防衛戦 連戦連勝の日本軍。

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-B7iwwGDL78


桂太郎(かつらたろう)

世界大百科事典 より
1847‐1913(弘化4‐大正2)。
明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。
維新後大阪兵学寮に学んだが中退して1870年(明治3)ドイツに留学,一時帰国し陸軍大尉として明治政府に出仕,75年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴きドイツ軍政を調査・研究する。
78年帰国,山県有朋陸軍卿に参謀本部独立を建言。参謀本部が設置されると管西局長となり,プロイセン軍制を範として軍制改革を推進した。

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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第7章 桂太郎(前編)――近代軍制を確立し、日清演奏に挑んだ軍官僚 より

戊辰戦争で苦杯を嘗める

日本の近代史の中で、今こそ再評価し、実像に迫る必要のある人物として、私は真っ先に桂太郎を挙げます。

前章でも述べたとおり、桂こそが日露戦争をわが国の勝利に導いた最大の功労者であり、そして晩年、立憲同志会を結成して日本に二大政党制を根づかせようと試みた、偉大な政治家でした。
にもかかわらず、桂は元老山形有朋の「使い走り」程度の存在で、せいぜい「ニコポン」しか芸のない凡庸な人物だと誤解されてきました。そのため、戦後長らく歴史家の柱にたちする関心も、ほぼ”無視”に近い状態が続いていたのです。とくに桂が首相になる以前の前半生については、ほとんど言及される機会がありません。
実は桂は、元老山形有朋や大山巌たちと同じように、明治維新の際、白刃の下を潜り抜け、新政府の樹立にかなりの貢献を果たした人物でした。明治新政府が桂に与えた賞典禄250石は、薩摩の西郷従道(300石)と桐野利秋(200石)のちょうど中間ですから、王政復古や戊辰戦争における桂の働きの大きさが窺えます。

さらに桂は、戊辰戦争後、不平士族の凶刃に斃(たお)れた西洋兵術の大家・木村益次郎の意志を継いでドイツ留学を果たし、その知識をもとに日本に近代軍制を導入した功労者でもありました。この桂の頑張りのおかげで、日本は早期に軍の近代化にこぎつけ、日清戦争に勝利することができたのです。こうした軍制上の功績だけを見ても、桂は後世に名を残すに値する仕事を十分成し遂げていたといえましょう。

弘化4年(1848)、長州藩の上級武士の子として生まれた桂太郎の軍歴は、早くも文久3年(1863)に始まっています。
当時、長州藩は攘夷運動の一環として、下関海峡を通過する外国船に盛んに砲撃を仕掛けていましたが、同年6月、仏米軍艦による報復を受けると、正規兵たる藩士で構成された長州軍は、あえなく敗北を喫しました。これに危機感を覚えた高杉晋作が、藩主の許しを得て結成したのが「奇兵隊」でした。以後、長州藩内には「諸隊」と総称される、武士階級にとらわれない民兵組織が続々と誕生することになります。吉田松陰の唱えた、草の根が立ち上がれ、という「草莽崛起(そうもうくっき)」が始まったのです。
一方、こうした動きに対し、このまま黙って「諸隊」の活躍を傍観するのは、代々毛利家の禄を食んできた武士の恥辱だとして、一部の有志が結成したのが「大組(おおぐみ)隊」です。その発起人の1人に名を連ねていたのが、他ならぬ弱冠17歳の桂太郎でした。
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時代の流れは速く一気に進んで、慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」が発せられます。このとき、桂は西郷隆盛に命じられて、朝廷より長州藩の毛利父子の官位回復と上京を命じる沙汰書をもって密かに教徒を脱出し、幕府型の追跡を振り切り、山陽道を潜行して長州へ向かいます。そして無事、その朝廷の命を山口の藩庁に届けるという一見地味ながら、実に重要な使命を果たしています。

つづく戊辰戦争でも、桂は長州藩の第4大隊2番隊(藩兵106人、雑兵30人)の指令に任命され、薩摩藩の兵とともに、東北の出羽地方の平定に向かいます。ところが明治元年(1868)5月、新政府軍の会津藩にたいする苛烈は処置に反発した東北と越後の諸藩が「奥羽越列藩同盟」を形成したため、新圧(現在の山形県)まで出張っていた桂たちの軍勢は、たちまち敵中に孤立することになります。ことに庄内藩兵は士気旺盛な上に再審の洋式銃で武装しており、これとぶつかった桂らの部隊は、敗走に次ぐ敗走を重ねました。
敵中に孤立し全滅を待つばかり、という事態を悲観した桂は、一時、兵士たちを前に玉砕論を説いたほどでしたが、年長の部下に止められ、かろうじて思いとどまります。そして劣勢を挽回すべく、桂自身がたった1人単独で本体を離れ、越後の松ヶ﨑に在陣していた西郷隆盛のもとに赴いて援兵を求めに赴き、他方で秋田藩の有力な佐幕派を失脚させて藩論を転換させるなど、つまり軍事とは別の「政治的な働き」によって苦境を救い、東北における新政府軍の最終的な勝利に貢献したのです。

結局、戊辰戦争で桂が学んだことは、私は2つあったと思います。第1に、西洋兵術に優れた庄内藩兵に苦戦した経験から、改めて最新の訓代軍事技術を学ぶ必要性を痛感したこと。第2に、新政府軍の情勢判断の甘さによって敵中に孤立させられた経験から、政治や外交、そしてインテリジェント(情報活動)の重要性に目覚めたことです。すなわち、戊辰戦争で苦杯を嘗めた経験から、後年、軍人としての道を歩む桂をして、彼の特質である「軍事に対する政治優位の思想」の下地づくりをしたといえましょう。

日清戦争で再び苦戦を経験

明治27年(1894)8月1日、「宣戦の大詔(たいしょう)」が発せられ、ついに日清戦争が勃発しました。桂が率いる第3師団にも、同月26日、待望の動員命令が下されます。山県の率いる第1軍に編入された第3師団は、9月12日、海路仁川(じんせん)に上陸、勇躍して朝鮮半島を北上しました。
10月25日、桂の第3師団は鴨緑江渡河作戦を成功させ、第1軍の先陣を切って清国領内へとなだれ込みました。さらに、第3師団は遼東半島の要衝・海城まで一気に進撃し、12月13日。これを攻略します。ところが第3師団のこうした突出は、同時に清国軍の必死の反撃を招いてしまいます。
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いずれにせよ、日清戦争の陸戦において、一元的な統制がとれていなかぅた清国陸軍に対し、全体として高度に組織的な動員をもっていた日本陸軍が勝利を得ることができたのは、戦前にドイツ式の近代軍制を確立していた桂の官僚的手腕の賜物だったといえます。従来、日清戦争では軍令を担当した参議次長の川上操六の役割が強調されてきましたが、桂の功績も決して忘れてはなりません。

ところが、清国から帰国して早々に、桂は大病を患って、入院を余儀ばくされてしまいました。海城籠城戦における心労が、相当たたったのでしょう。このとき、文字どおり日夜ベッドを離れず、献身的な介護をしたのが、誰あろう、あの児玉源太郎でした。児玉の励ましもあって、奇跡的に桂は回復へと向かいます。しかしその瞳の光には、早くも強敵ロシアの存在がありました。