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靖国神社
「殉国烈婦」「靖国の母」といった類の妄想にマインド・コントロールされてゆく 2016-01-13 日本経済の理想と現実
明治の日露戦争では、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ」という有名な歌にあるような精神がまだ残っていた。だが、昭和の十五年戦争では、婦人解放運動に邁進していた進歩的な女性活動家たちでさえ、「八紘一宇」「殉国烈婦」「靖国の母」「天皇陛下はわれらの慈母」「一太郎やあい」といった類の妄想にマインド・コントロールされてゆくのである。
http://d.hatena.ne.jp/gzts/20160113/1452669471
靖国神社問題 ウィキペディア(Wikipedia) より
靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。
後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。
「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や、第二次世界大戦において、当時の日本について「侵略だったか自衛だったか」といった歴史認識、また同戦争において日本の支配及び日本軍が送られ犠牲者も出た近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。第二次世界大戦における日本の終戦の日である8月15日の参拝は戦争の戦没者を顕彰する意味合いがあるとされ、特に国内の左派や日韓の2国において議論が大きくなる。
小野田寛郎は、日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった、としている。
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『この国のゆくえ―教科書・日の丸・靖国』 梅田正己/著 岩波ジュニア新書 2001年発行
靖国と歴史教科書 (一部抜粋しています)
2001年(平成13年)4月、森喜朗総裁(首相)の降板を受けて自民党の総裁選挙が4人の候補によって争われた。1政党の総裁選挙だったにもかかわらず、マスコミは逐一その模様を伝え、”首相公選”にも似た活況を呈した。最有力候補は自民党の最大派閥をひきいる橋本龍太郎元首相だったが、選挙戦がすすむにつれて、行政・財政の「構造改革」を断行するためには自民党がつぶれてもかまわないと公言する小泉純一郎氏に人気が集まり始めた。
総裁選挙での水面下の、しかし最大のテーマは、3ヵ月後の7月末に予定されていた参議院選挙で自民党が勝利するには、だれが総裁として望ましいかということだった。総裁選挙報道の中で小泉氏の大衆的人気が高まるのにつれ、流れは急速に小泉氏にかたむいて、当初の予想をくつがえし、小泉氏が自民党総裁の座を獲得、首相のポストについた。
この総選挙での4候補による討論会で、小泉氏は靖国神社参拝問題についてこう発言した。
「尊い命を犠牲に日本のために戦った戦没者たちに敬意と感謝の誠(まこと)を捧げるのが、政治家として当然。まして、首相に就任したら、8月15日の戦没慰霊の日に、いかなる批判があろうと必ず参拝する」(4月18日)
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小泉首相の参拝実行に対し、中国政府はただちに「強い憤慨」を、韓国政府は「深い遺憾」を表明したが、それ以上の抗議行動は抑制された。こうして小泉首相の”熱い夏”が終った。
首相の靖国神社参拝が、中国や韓国政府まで巻き込んで、どうしてこんな大問題になるのだろうか。それを解くには、靖国神社の果たしてきた歴史的役割を知らなくてはならない。
靖国神社の歴史は、1869(明治2)年、東京・九段に創設された招魂場(しょうこんじょう)に始まる。そこには、前年の戊辰戦争(幕府軍と討幕軍による内戦)の戦死者が祀られている。ただしそれは薩摩藩・長州藩を主体とした「官軍」の戦死者たちで、徳川幕府側の戦死者は上野に立てこもった彰義隊や会津の白虎隊などを含め「賊軍」として排除された。招魂場は創設から10年後靖国神社と改称される。
以後、日清戦争、それにつづく台湾出兵、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、日中全面戦争と、日本が対外戦争を重ねるごとに祀られる戦死者の数は増えていき、最後のアジア太平洋戦争で飛躍的に増大して246万人となった(その中に植民地だった朝鮮と台湾の出身者5万人が含まれている)。
また神社では毎年、日を定めて大祭(例大祭)が行われるが、靖国神社では、春と秋に例大祭が行われる。春の例大祭日は、日露戦争で勝利したあとの陸軍凱旋観兵式の行われた4月30日、秋の例大祭は同じく日露戦争後の観艦式の記念日である。10月23日と定められた。
以上に見たように、靖国神社の歩みは、戦争とともにあった。その管轄も、一般の神社が内務省の下にあったのに対し、靖国神社だけは軍の管轄、つまり陸軍省・海軍省の下におかれた。宮司も、正規の神官でなく陸軍大将など軍の高官がつとめた。付属施設も、遊就館、国防館という国立軍事博物館があり(遊就館は現在もある)、敷地の一部には陸軍現役将校のクラブである偕行社の本部建物や、帝国在郷軍人会館などがあった。靖国神社は、戦死者を祀る宗教施設であると同時に、軍の管轄する軍事施設でもあったのである。今回の靖国問題の報道の中で、欧米のメディアが靖国神社をウォー・シュライン」War Shrine(戦争神社)とよんだのは、たしかに本質の一端をついていたといえる。
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1985年8月15日、当時の中曽根康弘首相が靖国神社に公式参拝した。当然、中国、韓国などから猛反発をあび、その激しさに翌年は参拝をとりやめたが、その中曽根氏はこう語った。
「国のために殉じた人に感謝せずして、誰が国のために命をささげるか」
戦争への国民動員のための”靖国の構図”は今も生きているのである。”軍国の遺産”を清算し、克服するのではなく、逆にその”遺産”を尊重する政治の背後に、中国の人々が軍国主義復活の影を読み取るのは、決して杞憂とはいえない。杞憂どころか、戦後半世紀あまりにわたる日本の政治の歩み、とりわけ1990年代に入っての歩みは、隣国の懸念をはっきりと裏づけるのである。