じじぃの「歴史・思想_653_近代史の教訓・児玉源太郎(前編)」

児玉源太郎はいかにして台湾を近代化に導いたか?!【著者インタビュー】梓書院

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児玉源太郎

世界大百科事典 より
1852(嘉永5) - 1906(明治39)。
陸軍軍人。父は徳山藩士。
戊辰 (ぼしん) 戦争などに参加したのち,明治2 (1869) 年に大阪兵学寮に入り,1881年准少尉。西南戦争に参加。 85年参謀本部第一局長として陸軍兵制の近代化を進めた。陸軍大学校校長などを経て,91年ヨーロッパ視察。 92年陸軍次官兼軍務局長,98年台湾総督。 1900~01年第4次伊藤博文内閣の陸相。 01~03年桂太郎内閣でも内相,文相を兼務して陸相留任。
日露戦争満州軍総参謀長。 06年参謀総長となったが,在職中に死亡。

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『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第9章 児玉源太郎(前編)――軍人の枠を超えた政治的手腕の冴え より

父と義兄を幼少時に失う

「桂、何を弱っている。何も心配せずに養生せい。しばらく俺が代わってやろう」
大正政変によって内閣総辞職に追い込まれた前首相の桂太郎が、親友・児玉源太郎の夢をみたのは、大正2年(1913)6月のことでした。夢とは気づかず、「あとは児玉に任せておける」と安心した桂は、もうこのまま自分は眠りについてもよい、と思ったそうです。しかし、桂が夢から覚めてみると、当然ながらそこに児玉の姿はありません。すでに児玉は、日露戦争の翌年、明治39年(1906)、55歳の若さで亡くなっていたからです。愕然(がくぜん)とした桂は、我にかえって「やっぱり、あんな偉い人間は早く死んでしまうんだ」といって嘆息したといいます。そして、その桂も同年10月、児玉の後を追うように、66歳でこの世を去るのです。

陸相のみならず、文相、内相、台湾総督を務め、明治37年(1904)に始まった日露戦争では満州軍総参謀長としてほとんどの陸戦を指揮し、「奇跡の勝利」の立役者となった児玉源太郎は、多くの人々から「桂のあとの首相」と目されていました。それが戦後、あっけなく急逝したのは、日露戦争の作戦指導で心身ともに、文字どおり消耗し尽くした結果といわれます。もう1人、日露戦争全般を通じた勝利の立役者を挙げるとすれば、連合艦隊司令長官東郷平八郎でしょうが、児玉が東郷と異なるのは、軍人の枠にとどまらない稀有な政治的手腕をも併せ持った、スケールの大きな国家指導者だったことです。

後で、詳しくみますが、それまで経験のなかった日清戦争後の外征軍の復員や検疫事業という大仕事という大仕事、あるいは極めつけの難治とされた台湾統治において、児玉でなければできなかっただろうと思わせるような、あざやかな手際で見事な成功を収めています。

彼が軍人としては型破りな、スケールの大きい国家指導者たりえたのは、長州人とはいえ萩の本藩ではなく、支藩徳山藩出身であったことに加え、留学経験はおろか、士官学校さえ出ていないという特異な経験に求めることができます。こうした「傍流意識」こそが逆に、児玉をして狭い藩閥の人間関係や個人的利害にとらわれず、広く国家的な見地から物事を考えることのできる真の国家リーダーたらしめたのでしょう。

児玉は、ペリー来航の前年にあたる嘉永5年(1852)2月、徳山藩士の家に生まれました(明治天皇と同年の生まれ)。父の半九郎は百石どりの馬廻役を務め、藩では中の上クラスと、家格は決して低くありませんが、児玉がわずか5歳のとき、「悶死」するという悲劇に見舞われました。半九郎は、誰彼となく持論をぶつけてはあちこちで衝突を起こすので――こうした資質は後年の児玉を思わせますが――次第に藩の重役に睨まれて、座敷牢に閉じ込められ、憂愁が積もって死に至ったといわれます。

その後、児玉は姉婿の浅見次郎彦に養育されましたが、13歳のとき、再び人生の悲劇に襲われます。義兄の次郎彦は、吉田松陰門下の久坂玄瑞入江九一らと交流が深く、藩論を「尊王討幕」へ転換させようとして、反対派の藩の重役の暗殺を企んだのですが、逆に刺客によって、自宅で惨殺されてしまったのです。この出来事と義兄暗殺の無念を、のちのちまで児玉は折りに触れ人に語ったといいます。一見喧嘩早く見える児玉ですが、「いざ有事」という際には、緻密に計画や作戦を立ててから行動に移す慎重な性格も併せ持っており、それは不用意に政敵の返り討ちに遭った義兄の非業の死に学ぶところがあったからかもしれません。

幕末の動乱の中、大政奉還を経て戊辰戦争が勃発すると、児玉は弱冠17歳で徳山藩の官軍部隊「献功隊」の半隊司令(小隊長)を拝命し、遠く北海道にまで遠征し、明治2年(1869)5月、函館・五稜郭での「大川口の戦い」で初陣を飾りました。このとき、児玉は、旧幕府軍大鳥圭介の率いる斬込隊の夜襲を天性のカンで察知し、巧みに迎撃して前線の一角を守り抜き、さすが後年の戦(いくさ)上手を思わせる指揮ぶりを見せたといわれます。

後藤新平との出会い

明治27年(1894)に勃発した日清戦争では、一元的な統制のとれていなかった清国陸軍に対し、日本陸軍はドイツ式の組織的な動員・作戦計画を駆使して、まさに連戦連勝することができました。当時陸軍次官を務めていた児玉は後方勤務を任され、桂のように現地に出征する機会はありませんでしたが、国内で2つの大きな仕事を成し遂げています。
1つは、戦争開始直前まで開通していなかった広島ー宇品港(現広島港)間の鉄道を突貫工事で完成させたことです。そのやり方も、民間業者にあえて「清国との戦争間近」という機密を漏らし、戦時輸送にまつわる利権を餌に、不可能と思われた短期間での工事を約束させるという、手荒なものでした。もちろんこれは軍記違反ですが、目的のためにはどんな手段を使っても必ずやり遂げるのが、児玉という男がもつ恐るべき資質なのです。

もう1つは戦後、大陸から凱旋し日本に帰国する兵士に対して、国内への伝染病の流行を防ぐために徹底的に検疫を施したことです。日清戦争全体の死亡者は約1万3千人でしたが、実は、純然たる戦闘での死者はその1割程度にすぎず、あとの9割は赤痢コレラなどの伝染病か脚気によるものでした。もし伝染病に罹患(りかん)した兵士が検疫を受けないまま帰国すれば、国内は大混乱に陥ったでしょう。

これを防ぐため、明治28年4月、「臨時検疫部」が設けられ、陸軍次官の児玉がその部長を兼務しました。この際、軍医総監の石黒忠悳の紹介により、検疫の実地責任者として抜擢されたのが、後藤新平でした。検疫の仕事は、凱旋の兵士からは恨まれる仕事です。1日も早く故郷に錦を飾りたい、と思っているのに、沖合の輸送船の中で何日も待機して検査を受けさせられるからです。児玉は、しかしこの仕事の大切さがわかっていましたから、反対を押し切って、後藤が望むだけの費用を融通し、実務に任せる一方、後藤に対する批判はすべて自分のところで封じ込めました。とかく「傲慢な性格」と許された後藤も、この児玉の度量の広さには感激して感激して涙を流したといいます。

その結果、半年間で検閲した人員23万2300人、船舶延べ687隻、消毒した物件93万点というそれまでの世界の戦死上、空前の大事業を成し遂げたのでした。これにより日本は、「戦争も強いが、文明にも強い」ということで、当時、世界的な評価を得るに至ったのです。

同じアジア民族として

さらに、日露戦争勃発前後に児玉と後藤のコンビが成し遂げた歴史的な仕事として、台湾統治が挙げられます。明治28年(1895)、清国から「化外(けがい)の地」とされた台湾は、日清戦争後の講和条約により日本に割譲されました。当時、疫病がはびこる「難治の島」とされた台湾の近代化を進める上で最大の貢献をなした人物こそ、第4代台湾総督・児玉とその下で民政長官を務めた後藤新平の2人だったといえます。
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軍事的才能のみならず、日清戦争後の検疫事業や台湾統治では政治的手腕の冴えを見せ、外交や戦争におけるインテリジェントの重要性についても政府指導部で誰よりも理解を示していたのが、児玉源太郎でした。彼は、こと国家戦略ということに関し、近代日本が生んだ「最高の知性」といっても過言ではないでしょう。次章では、その児玉がいかに日露戦争を戦い、日本を勝利に導いたかを詳しく見てゆくことにしましょう。