じじぃの「歴史・思想_650_近代史の教訓・明治の三太郎」

【ゆっくり解説】小学生でもわかる日露戦争。なぜ日本は大国ロシア相手に完全勝利で勝てたのか?外交努力や戦略など解説!

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「人の鏡」が日本の窮地を救う

Chinoma
●人心掌握に長けた無私の軍人
 桂太郎小村寿太郎とともに〝明治の三太郎〟と称される児玉源太郎は、日露戦争における功労者である。
児玉がいなかったら、陸戦で勝利を得ることはできなかったかもしれない。当時のロシアは、常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で約8倍という超大国であり、陸軍は明らかに世界一であった。明治天皇伊藤博文も開戦は望まなかったが、かといって状況を座視するだけではやがて侵略されるのは目に見えていた。少なくても属国化される可能性はあった。まさに「進むも地獄、退くも地獄」という状況のなか、日本人が一丸となって戦い、辛くも勝利を収めた戦争であった。
https://www.compass-point.jp/japanese/6735/

『近代史の教訓――明治のリーダーと「日本のこころ」』

中西輝政/著 PHP研究所 2022年発行

第6章 明治の三太郎――日露戦争に挑んだ近代日本の「長男」たち より

明治日本の輝ける瞬間の立役者

「歴史のイフは意味のないこと」とよくいわれます。まさに正論でしょう。歴史の客観的事実を重んじる立場からすれば、決して検証されることのない「もし~だったら」「もし~れば」についていつまでも語ることは、一種の未練がましさと、何よりも虚しさを免れません。
しかし他方で、歴史上の人物が辿らざるをえなかった運命や錯誤を、もし、あのとき、避けることができたならば、というかたちで考察してみることは、後世の人間が歴史というもののダイナミズムを深く味わい、またそこから深い教訓を得ようとするなら、むしろ必須の知的な営みといえる場合もあるのです。

その意味で、今回取り上げる「明治の三太郎」、すなわち桂太郎児玉源太郎小村寿太郎の3人ほど、その「早すぎた死」が悔やまれる人物はいません。

日露戦争後は、わずか7年のうちに「明治の三太郎」はすべて亡くなったのです。まさにこれは、「日本近代史における一大痛恨事」にほかなりませんでした。

私のいう、この「明治の三太郎」たちが、もし大正、そしてできれば昭和の初めまで長生きしていたら、近代日本の運命は確実に違った進路を辿っていただろうと思います。おそらく彼らはみな、引退後も国家の重鎮となり、大正・昭和には誰よりも迫力ある「元老」として、明治天皇なき後の不安定さを増す日本の進路を正しく導いたはずだからです。しかし、3人の死後、国家の柱石を失った大正、昭和期の日本は、まるで「国家としてのタガ」が外れたかのように迷走しはじめ、やがては暴走の回路にはまり込み、大東亜戦争の敗北というあの「昭和の悲劇」に至ったのです。
さらにいえば、もし、彼らがせめてギリギリ、あと数年でも長生きしてくれていたならば、その「昭和の悲劇」も避けることができたのではないか。これはほとんど私の確信といっていい、決定的な「歴史のイフ」の1つなのです。

「明治の三太郎」の最大の功績が、明治37年(1904)に勃発した日露戦争を、わが国の勝利に導いた点にあることはいうまでもありません。
桂太郎は、まさに「日本の岐路」であった日露戦争の前後5年間にわたり、首相として政治の前面に立ち、よく日本を指導しました。外交や戦争で国家が「のるか反るか」の命運を賭けるとき、最も重要なカギを握るのは、つまるところ内政の成否です。このことは、昭和の歴史も反面教師としてですが、よく証明しています。日英同盟の締結(明治35年)から日露開戦へと日本の国運がかかった内政の安定を誤りなく導いたのも、元老ではなく、昭和・桂太郎の政治手腕の賜物だったのです。

児玉源太郎は、そもそも日清戦争でも、肩書きは陸軍次官でしたが、海軍大臣西郷従道陸相を兼任していたため、事実上の”陸軍大臣”として、清国との戦いを勝利に導きました。次いで、日露開戦の直前、児玉は内務大臣を辞し、自ら参謀次長に降格した上で作戦立案に没頭、いざ開戦となるや、満州軍総参謀長として、ほとんどの陸戦を直接指揮しました。
外相の小村寿太郎日英同盟の締結交渉をリードし、ポーツマス講和会議(明治38年)では日本の勝利を歴史的に決定づける立役者となった人物です。

小村に対する2つの評価

戦後の評価においてより微妙なのは、小村寿太郎でしょうか。小村は、対露開戦にためらう元老たちを引っ張って戦時外交を担い、とくに戦争末期、講和交渉の難航が予想されたため、露骨に逃げを打って全権代表になろうとしなかった元老たちに成り代わり、自ら火中の栗を拾い「非常なる覚悟」で全権を引き受け、ポーツマス講和会議に臨みました。そして、アメリカでの広報外交において、アメリカ世論を味方につけようとする、ロシア全権・ウィッテの宣伝上手に後れをとった面は否めませんが、大国ロシアを相手に一歩も引かない粘り強い交渉で、ロシアから南満州鉄道をはじめとする、重要な満州利権の割譲と、南樺太の割譲を辛くも勝ち取ったのです。
この小村の頑張りのおかげで、国際社会も「日本がロシアを降参させた」と認め、日露戦争における「日本の勝利」という歴史的事実が名実ともに確定したのです。こうした小村の胆力は、誰しも認めるところでしょう。

ただ、戦後の日本では、小村に対し、日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンによる満州の鉄道の鉄道買収工作を阻止して、満州利権をめぐる日米対立とアメリカの反日外交の原因をつくったとする批判や、韓国併合を推進したことから「帝国主義外交の推進者」として、その後の日本を危険にさらす種をまいたのでは、という負の評価が、主として歴史学者などから唱えられることが多くなりました。
しかし、大正期の日本外交が、「幣原(喜重郎)外交」にだいひょうされるように、あまりに容易に「国際協調」という時代の流れに同調したため、逆に中国の「革命外交」の挑戦を受けてしまい、国益を大きく損なったことを考えれば、小村に対するそうした評価は一面的にすぎることは明白でしょう。大正期の安易な国際協調外交は、「このままでは確実に満州の利権は失われる」という軍部や世論の危機感を招き、結果的に関東軍の暴発(満州異変)という最悪の事態を引き起こす原因にもなりました。

他方、そうした安易な「国際協調」にすべてを委ねるようとしたのが大正期の外交の失敗ならば、「松岡(洋祐)外交」に代表されるように、その反動として国際連盟からの脱退など、あまりに性急に、正面から「今こそ国際秩序に挑戦すべし」と叫び、跳ね上がった行動に出てしまったのが、昭和期の外交の誤りでした。こうした両極端の日本人の分裂が、ポーツマス講和会議以後のこの国に起こった、最大の不幸だったのです。

明治の日本人には、このような分裂はありえませんでした。誰もが自分の立場や思想よりも、ひとえに国を思って最大限の努力をし、国際社会での日本の存在と繁栄をひたすらに求めていたからです。小村はポーツマス会議から戻って5年後の明治44年(1911)、57歳(数え年)の若さで亡くなりますが、その外交手腕を継いだ後継者は、大正、昭和期の日本にはついに現われませんでした。それだけに、ここでも早すぎる死が悔やまれるわけです。

国家運営に関わる辛苦を喜んで引き受ける

元老の山県有朋の影響力を排して二大政党制を日本に根づかせようとした桂に限らず、「明治の三太郎」が、それぞれ「元老、何するものぞ」という気概を終生抱いていたことは、とくに協調すべきでしょう。
そもそも、「明治の三太郎」と元老たちとの間には、家格意識という面で明らかな差がありました。
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このように「明治の三太郎」は、己の出目に対する強い誇りと自負があった分、維新の功労者である元老たちに対しても、まったく引け目を感じることなく、自らの信念を貫くことができたのです。
加えて「明治の三太郎」に共通するのは、彼らが、精神面において元老たちよりも深く吉田松陰西郷隆盛の正当なる継承者だったことです。
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明治国家の成立以降、国家運営に関わる辛苦を、何よりも喜んで引き受けた彼らの精神構造は、封建社会の中で深く培われていたと見るべきでしょう。
とくに彼らが日露戦争時、第一線に立つことを忌避した元老たちに代わって、必ず「大国ロシアに勝つ」のだという強い決意を持って、その難事業を自ら進んで引き受けたのは、その高慢な武士的エートスと「長男」としての使命感のゆえだった、といえましょう。