じじぃの「科学・芸術_126_日露戦争」

日本海海戦 動画 YouTube
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日露戦争

日露戦争の日本勝利は欧米列強にも植民地各国にも大きな衝撃を与えた! 輝き始めた日本
有色人種の小国であった日本が、世界最強とも言われていた白色人種国家のロシアに勝利したのです!
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『ロシアの歴史を知るための50章』 下斗米伸夫/著  明石書店 2016年発行
日露戦争と日露関係 (一部抜粋しています)
1903年8月に本格的な日露交渉が始まるが、この頃に両国において大きな政治的変化が起こった。日本では伊藤が枢密院議長となり、対露交渉では強硬論者の小村寿太郎外相と桂太郎首相が主導的な役割を果たすようになった。他方ロシアでは、満州からの撤兵と韓国の譲渡を主張したヴィッテ蔵相が失脚し、穏健派のラムスドルフ外相の影響力が低下した。また、強硬派のアレクセーエフを太守とする極東太守府が旅順に新設され、日露交渉を含む極東外交政策を管轄するようになった。この異例の動きは、対日交渉の政策決定過程を混乱させたばかりか、日本指導部にロシアは鉄道建設のために時間稼ぎを図っているのではないかと猜疑心を深めた。
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日露戦争は、ロシアに極めて不利に展開した。陸地の戦場では日本軍は早々と朝鮮半島を支配し、遼東半島を孤立させて旅順を包囲した。さらに、遼陽会戦に勝って沙河まで北進した。海上では、日本軍は仁川沖海戦黄海海戦でロシア軍を破り、旅順にあった艦隊とウラジオストク巡洋艦隊の合体を防いで海上輸送路を確保した。
後退を繰り返したロシアはヨーロッパ地域から鉄道で兵力を輸送し、大軍を満州終結するとともに、バルティック(バルト海)艦隊を太平洋に派遣し、打開を図った。ところが、1905年1月に旅順が陥落し、戦局はさらに悪化した。3月の奉天会戦で敗北したロシア軍は四平街まで後退した。
こうしたなか、ロシア国内では政治体制に対する不満が高まった。1905年1月、サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」が起こり、各地の工場や鉄道でストライキが広がった。混乱が革命的様相を見せるなかで戦争の継続は次第に困難になった。
一方、国力の限界に達した日本にとっても戦争の負担は重くなっており、政府は講和の斡旋を米国大統領ルーズベルトに依頼することを決めた。ところが、ロシアは内戦に苦しみながらも、まだ、十分の兵力を有し、戦争の行方を変える期待を捨てなかった。しかしながら、5月27日から28日にかけて起きた日本海海戦対馬会戦)で、日本の連合艦隊がバルティック艦隊を打ち破った。ロシアにとって海軍力なしで日本に勝利することは不可能であった。海軍がほぼ壊滅状態になり、最後の希望を失ったロシアは、講和会議の提案を承諾せざるを得なくなった。
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日露戦争は、東アジアにおける地政学的状況(パワーバランス)に重大な変化をもたらした。軍事的に弱体化し、国内の統治に苦しむロシアは内政改革に力を入れるようになり、外交面ではヨーロッパ方面を優先にし、極東地域では消極的な姿勢をとるようになった。これに対して日本は、東アジの海域における支配権と大陸における戦略的拠点を獲得し、積極的な外交政策によってリーダーシップをとるようになった。
戦争直後に日露関係は不安定な状態にあった。ロシアは日本による韓国保護国化を阻止しようとしたが、これに失敗した。ロシアの復讐戦を危惧した日本は、戦後の財政難に苦しみながらも陸海軍の増強に務めた。それは、軍部をはじめとするロシアの指導部と極東地域に大きな不安を抱かせた。
一方、日露両国には敵対関係を維持する力が不足していた。また、満州及びその周辺地域において相互の地政学的利害は調整可能だと考えるようになった。激変する欧州情勢も影響し、英仏両国も日露両国の和解を積極的に支持した。1907年、両国は、外蒙古北満州をロシアの勢力圏とし、朝鮮半島南満州を日本の勢力圏とする第1次協約を終結し、接近の基盤を生み出した。