じじぃの「歴史・思想_546_白人侵略・日清戦争」

【流れがよく分かる】初めての近代日本史⑰義和団事件(北清事変) 北京議定書

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https://www.youtube.com/watch?v=k3ziOEL8cC4

「北京議定書」の締結式の写真とアラスカ会議

テレビにだまされないぞぉⅢ:華春瑩「120年前の中国ではない!」、人民日報「2つの辛丑」の意味

2021年03月24日 NHK 世界のトップニュース
アナ「中国では欧米との対立を120年前に起きた事件と対比して語られる事が多くなっている。
コチラは中国共産党機関紙「人民日報」がSNSに投稿した画像。
http://dametv3.blog.jp/archives/28506052.html

『白人侵略 最後の獲物は日本』

三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行

第6章 翻弄される日本 より

ヨーロッパで緊張が高まり始めた1891年、悪い知らせが日本に届いた。
ロシアが、モスクワ・ウラジオストック間9300キロメートルをつなぐ「シベリア鉄道」を起工させたのである。
このときのロシア皇帝は、アレクサンドル2世の嫡子アレクサンドル3世である。
前皇帝のアレクサンドル2世は、10年前の1881年3月1日に帝政打倒を目指す反体制テロ組織「ナロードニキ(人民の意志)」に爆殺されていた。
アレクサンドル3世は帝位に就くや、直ちに秘密警察オフラーナに命じて、父アレクサンドル2世を爆殺した5人を逮捕して絞首台に送り、父親の仇を取った人物である。
その新帝率いるロシアが極東に迫ってきた。
日本国中に緊張が走った。
更にこの年の5月11日、日本中を震撼させる事件が起こった。
ロシアのニコライ皇太子が、ウラジオストックで行われるシベリア鉄道ウスリー支線(ウラジオストックハバロフスク間)の起工式に出席する途中に日本に立ち寄り、琵琶湖を見学した帰路で沿道を警備していた滋賀県巡査津田三蔵に斬りつけられ、頭部に2太刀を浴びて重傷を負ったのである(「大津事件」)。
幸い皇太子の傷は致命傷には至らなかったものの、この事件を口実に父親であるアレクサンドル3世が賠償として択捉島国後島礼文島隠岐対馬などの割譲を迫るか、宣戦布告してくる恐れがあった。
他国に宣教師を送り込んで殺害されるのを待ち、因縁をつけて戦争に持ち込むのは白人たちが他国を侵略するときに使う常套手段である。
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こののち日本への意趣返しとしか取りようのない極東でのロシアの南下が本格化していくのである。
大津事件から3年後の1894年、日本はついに対外戦争に踏み切らざるを得なくなった。
日清戦争」である。
引き金となったのが全羅北道で起こった農民一揆甲午農民戦争)であった。
この乱の原因については「日本の圧政に耐えかねた農民が決起し、それを抑えられなかった朝鮮政府が清国に乱鎮圧の援軍を要請したため、半島の領有権を巡って日・清が激突した」という説がまかり通っているが、まったく事実と異なっている。
1892年、全羅道古阜に赴任してきた郡守が私腹を肥やすために年貢の取り立て量を増したことで、困窮した農民たちが決起したというのが事実である。
朝鮮半島では李氏朝鮮が統治していた500年の間、特権階級である両班(ヤンパン)による収奪や役人の汚職が横行し、庶民は貧困に苦しんでいた。
甲午農民戦争李氏朝鮮の腐敗体質が招いた結果であり、日本に責任は一切ない。
朝鮮政府は正規軍を投入して乱の鎮圧を図ったが、逆に農民軍に叩きのめされたうえに、全羅北道最大の都市である全州市を占領されてしまった。
朝鮮政府は、清国に鎮圧部隊の派遣を要請する一方で、農民たちの説得にあたり、「郡守の更送」と「年貢量の軽減」を約束することで何とか乱を鎮静化させた。
清国の鎮圧部隊が全州市に到着したのは農民軍が撤収したあとである。
この騒動の9年前、伊藤博文と清国の欽差大臣(全権大使)李鴻章との間で「朝鮮半島で内乱が起こり、日本・清国どちらかが派兵する必要が生じた場合、乱の鎮圧後はたたちに半島から兵を退く」という約定が交わされていた。
にも拘わらず、清国政府は派遣軍を居座らせ、半島を実効支配する動きを見せたのである。
日本政府は慌てた。
自国領すら英仏露に蚕食され続けている清国に朝鮮半島を委ねれば、立ちどころにロシアに奪われて日本侵攻の拠点とされてしまうのは目に見えていた。
6月12日、日本政府は朝鮮公使大鳥圭介に命じて、清国軍掃討の要望書を日本政府に出すよう朝鮮政府に圧力をかけ、7月19日には巡洋艦28隻、水雷艇24隻からなる連合艦隊を編成して黄海に向け出撃した。
同時に陸軍2個師団を仁川に送って朝鮮駐留軍に合流させ、第1軍を編成して清国軍と対峙させた。
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旅順陥落を知った清国政府は、戦闘開始から4ヵ月で「講和会議の開催」を呼び掛けてきたが、日本政府は拒否した。
旅順要塞を落とした第2軍は、威海衛に逃げ込んだ残存北洋艦隊を殲滅するため、12月19日から海上輸送で山東半島に向かった。
翌1895年1月30日、山東半島東端の栄城湾に上陸した第2軍が威海衛に姿を現すと、清国軍守備隊は砲台を捨てて逃げた。
砲台を占領した日本軍は、その砲口を港内に停泊している北洋残存艦隊に向けて砲撃を開始した。
海上からは、連合艦隊が放った水雷艇が湾内に突入して、魚雷攻撃で戦艦2隻、汽船1隻を撃沈し、旗艦定遠の喫水線下に大穴を開けて座礁させるなど嬲(なぶ)り殺しの様相を呈してきた。
港外からも連合艦隊が艦砲射撃を加え、その1発が巡洋艦靖遠を直撃して大爆発を起こし、一瞬で沈没すると、北洋残存艦隊のすべての艦艇で水兵の反乱が起こり、艦長たちに刃物を突きつけて降伏するよう脅した。
定遠」の艦長は部下の反乱を嘆いて拳銃自殺し、「靖遠」に座乗していた司令長官も李鴻章に降伏する旨だ伝したあと阿片を呑んで服毒自殺を遂げた。
翌2月12日、北洋艦隊が増すとに白旗を掲げた鉄屑同然の艦艇を港外に出して降伏の意思を示すと、日本軍の砲撃は漸く止んだ(「威海衛の戦い」)。
一方、牛荘で進撃w阻まれていた第1軍は、3ヵ月を超える激闘の末、2月27日に清国軍守備隊を撃破し、3月9日に田荘台に攻め込むと、2万人の清国軍も1時間で降伏した。
陸海軍ともに完膚なきまで叩きのめされた清国政府が再び講和会議の開催を持ち掛けると、漸く日本政府はその呼びかけに応じて、3月19日に李鴻章が門司に到着して話し合いが持たれた。
日本側が提示した条件が、
  一、朝鮮国の独立の承認
  一、遼東半島と台湾の割譲
  一、賠償金2億両(清国の国家予算2年分)
  一、日本への最恵国待遇付与
の4条件である。
提示条件の中で李鴻章が台湾の割譲に難色を示すと、日本全権は交渉決裂を告げて全軍に戦闘再開を命じ、3月26日に第2軍が澎湖(ほうこ)列島を占領した時点で改めて話し合いが持たれた。
席上、日本側が「澎湖列島の割譲」を上積みすると、李鴻章はその要求を呑んで4月17日に「日清講和条約下関条約)」が集結され、日清戦争終結した。
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世にいう「三国干渉」である。
裏で糸ひいたのがヴィルヘルム2世である。
欧米列強の白人同様、ニコライ2世も日本人を人間とは思っていなかった。
それに加えて来日した際、日本の警官に斬り付けられたことで、ニコライ2世の日本人に対する感情は「軽侮」から「憎悪」へと変わっていた。
事実、ニコライ2世は公の席でも日本のことを「Macaca(オナガザル)」と呼び、公文書にもそう記すようになっていた。
ヴィルヘルム2世はニコライ2世の日本への憎悪を利用して日露間の対立を煽り、あわよくばフランスをも日本との争いに巻き込み、両国の兵力を極東に割かせて露仏がドイツに敷いた挟撃態勢を弱めようとしたのである。
ウィルヘルム2世の誘いにニコライ2世がまんまと跳び付いた。
ニコライ2世は直ちに軍艦を日本海に遊弋(ゆうよく)させ、砲口を日本に向けて恫喝してきたのである。
フランスも加わった。
この時の日本にたとえ独仏露の一国とでも一戦交える力はない。
時の外相陸奥宗光は「ここは屈するしか道はない」と遼東半島を清国に返還した。
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その頃、欧米列強に喰いものにされ続けている清国内では「扶清滅洋(外敵を排除し、国を守る)」を唱える排外主義運動が各地で起こるようになった。
その中で最も大規模なものが、1900年に山東省の宗教組織「義和団」の信者20万人が決起した「北清事変」である。
当初、欧米列強の言いなりになっていた清国政府は義和団の乱を鎮圧するつもりでいたが、義和団員たちが日・米・英・露・独・仏・墺・伊、8ヵ国の外国公使館を包囲するのを見ると、政府内の攘夷派を追い落として6月21日に8ヵ国に宣戦布告した。
8ヵ国は直ちに7万の兵を送って7月14日に天津を陥落させ、8月14日には北京を占領した。

義和団を支持した政府攘夷派は西安に逃れ、実権を取り戻した恭順派は、8ヵ国も協力して乱を鎮圧し、1901年に8ヵ国に4億5千万両(清国の国家収入5年分)の賠償金を支払うという要求を呑んで「北京議定書」を結び、北清事変を収束させた。