日本におけるキリシタン弾圧
集団処刑、熱湯漬け拷問…そして島原の乱、勃発。日本におけるキリシタン弾圧の歴史
2018/08/18 歴史・文化
https://mag.japaaan.com/archives/73760/2
【戦国時代のキリスト教】秀吉によるバテレン追放令とは
歴人マガジン
戦国末期から江戸時代にかけて、キリスト教が禁じられるようになっていきます。
そのなかで豊臣秀吉が発令したのが「バテレン追放令」。ですがキリシタン大名は依然として存在していました。それでは、バテレン追放令とは一体どのようなものだったのでしょうか?
バテレン(伴天連)とは、ポルトガル語の「padre=神父」を指す言葉です。
バテレン追放令は、天正15(1587)年に豊臣秀吉が出した法令で、主にキリスト教宣教師に国外退去を命じたものでした。
明治6(1873)年にキリシタン禁制の高札が撤廃されると、信者たちはこぞって長崎に教会を建てました。
これらが2016年現在、世界遺産登録に向けて推薦を決めた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」です。
異質なものを排除したくなるのはよくあること、しかしキリシタンへの弾圧はあまりに過酷でした。
https://rekijin.com/?p=15957
『白人侵略 最後の獲物は日本』
三谷郁也/著 ハート出版 2021年発行
第2章 切支丹追放 より
ポルトガルに次いで海洋進出に乗り出したのがスペインである。
1492年8月3日、イサベル女王から資金援助を受けたイタリア人探検家コロンブスが、90人の手下と共に黄金の国日本(ジパング)を目指して大西洋を渡り、10月12日にカリブ海のサン・サルバドル島(現バハマ領)に到着した。
大西洋の彼方にカリブの島々やアメリカ大陸があることなど知らなかったコロンブスは、日本を通り越してインドに到着したと勘違いし、島民をスペイン語でインド人を意味する「インディオ」と呼んだ。
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南米とアフリカを席巻した余勢を駆って念願の黄金の島日本に上陸した白人たちであったが、勝手が違った。
当時日本は戦国時代である。
日本刀の一振りで敵の首を刎(は)ねる屈強の武士団は、インディオと黒人を虫けらのように殺してきた白人たちを震え上がらせた。
白人たちを最も驚愕させたのが大量の銃が出回っていたことである。
日本では、両国が到着する6年前に種子島に漂着したポルトガル人船員から入手下2挺の銃に改良を重ねて自力で生産できるようになっていた。
しかも、その生産能力も性能もヨーロッパ製の銃を凌駕していたのである。
1575年に信長が3千挺の鉄砲隊で武田勝頼軍を殲滅するのを見て、白人たちは武力では勝ち目がないことを思い知った。
白人たちはやり口を変えた。
キリスト教の布教で日本人を洗脳して蜂起させ、日本を乗っ取る計画を立てたのである。
宣教師とは侵略軍の尖兵に過ぎない。
宣教師たちは布教の許しを得るため、信長に様々な献上して機嫌を取った。
その中に黒人の召使いがいた。
『信長公記』の中に「宣教師から献上された黒人の召使いを信長は大層喜び『彌助(やすけ』と名付けた」と記されているが、この黒人は、宣教師がポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)から連れて来た奴隷である。
1582年に信長は「本能寺の変」で倒れるが、光秀を陰で操ったと噂される人物の1人にイエズス会幹部のオルガンティーノ神父がいる。
強大な軍事力を握る冷酷無比な信長を日本侵略の障害と見なし、光秀を煽(あお)って葬ったとも考えられる。
秀吉の治世になっても宣教師の布教は公認されたが、この頃から宣教師たちは勢力を飛躍的に拡大させていった。
九州北部で切支丹信者は20万人に膨れ上がり、有馬晴信、大村純忠、大友宗麟ら有力大名が次々と帰依(きえ)していった。
宣教師たちは平伏(ひれふ)す信者の前で肯定のごとく振る舞い、僧侶の殺害や寺社への放火、仏像の破壊を命じるようになった。
また宣教師たちは、切支丹大名を操って泣き叫ぶ領民を奴隷船に積み込み、海外に売り飛ばす奴隷商人であり女衒(ぜげん)でもあった。
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宣教師の化けの皮が剥がれたのは1587年である。
この年、バルト海貿易とニシン漁で航海の腕を上げたオランダが日本に交易を求めて来た。
そのオランダ商人が、日本との交易を独占するためにポルトガルとスペインの侵略の手口を幕閣の耳に入れたのである。
報告を受けた秀吉は即座に「バテレン追放令」を出し、交易も断って日本の防備を急ぎ、1592年と1597年には17万もの軍勢を朝鮮半島に派兵した(「文禄・慶長の役」)。
この兵力は秀吉が生涯で動かした最大のものであった。
その動機については諸説ある。
「秀吉の統治に不満を持つ武将の関心を海外に転じるため」という説があるが、戦乱の世を治めた秀吉の統治は安定していたし、絶大な力を持つ秀吉に逆らう武将などいなかった。
「嫡男鶴松の死で乱心した」など論外である。
「征服欲から、朝鮮、明国、インドの征服を目論んだ」という説もあるが、戦上手な秀吉が、莫大な戦費が掛かる上に、武器や弾薬、食糧の補給が困難になり遠征軍が孤軍となるような危険を冒すなど考えられない。
「本能寺の変」後の光秀討伐の「中国大返し」でも、秀吉が気にかけたのは兵の食糧の調達であった。
ポルトガルかスペイン、もしくは明国や朝鮮が、日本の安全を脅かす何らかの軍事行動を取ったため、やむなく出兵したとしか考えられない。
13世紀末、2度にわたり朝鮮半島経由で博多湾に襲来した蒙古・朝鮮連合運のことが秀吉の脳裏を過(よぎ)ったのだろう。
1596年には「バテレン追放令」の布告後に日本に居座っていたスペイン人宣教師6人と日本人信者20人を捕えて、全員の片耳を削ぎ落し、京から九州まで裸足で引き廻して、切支丹の多くいる長崎で磔刑(たっけい)にしている。
隠れ切支丹への見せしめであり、ポルトガルとスペインへの警告であった。
徳川の世になっても、切支丹への対策は変わらなかった。
家康は「キリスト教の広まりは国家を滅ぼす」として、1614年に「切支丹禁教令」を出し、布教や崇拝を固く禁じた。
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オランダ(プロテスタント)にとってスペイン(ローマ・カトリック)は憎むべき嘗(かつ)ての支配者であり、原城に立て籠った切支丹は仇敵(きゅうてき)の手下に過ぎなかったのである。
島原湾に急行したしたオランダ艦隊は、切支丹が立て籠もる原城に容赦なく砲弾を叩き込んだ。
圧倒的な火力の差に加え、海上から砲撃では切支丹や武装農民に反撃しようもなく、一方的に撃たれ続けた。
そこへ九州諸藩が一斉に攻め入り、4ヵ月におよんだ切支丹の反乱を鎮圧することができた。