じじぃの「日本でキリスト教の信徒数が1%であるワケ!歴史にはウラがある」

大浦天主堂 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8HH1uiQ3ui0
踏み絵

日本と世界の宗教別信者数ランキング
日本国内と世界の宗教の信者数及び信者数ランキングをまとめてみました。
1位.キリスト教(世界人口の約32%)
2位.イスラム教(世界人口の約23%)
3位.ヒンドゥー教(世界人口の約15%)
4位.仏教(世界人口の約7%)
http://lifenoblog.com/life/religion-number/
なぜ日本ではキリスト教が広まらないのか? 2015年6月20日 海外反応! I LOVE JAPAN
日本のキリスト教人口はたったの1%、宣教師が長年布教しても日本でキリスト教が広まらないのはなぜ!?
海外「ひょっとして日本人はキリスト教が嫌いなの!?」
・日本はキリスト教徒が非常に少ないけど、日本の隣の国の韓国はキリスト教徒がメチャメチャ多いんだよね。韓国は人口の30%がキリスト教徒だったりする。
 私はこの事実をとても興味深いとずっと感じてて、日本と韓国の国民性はこのキリスト教徒の数の違いからも大分異なってるんだと思ってたりする。
 日本は島国で自国の自然的哲学のような物が発展したことにより特定の外国の宗教に依存しなかったんだろうと思うんだ。
 一方の韓国は大陸と接してることにより外部からの様々な影響を受けたのではないかと思ってたりする。
・日本は昔キリスト教を迫害した時代もあったからね。
 日本でキリスト教が広まらなかったのはそれが一番の理由だと思う。
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51893982.html
『歴史にはウラがある』 ひろさちや/著 新潮文庫 2002年発行
カトリックの2国に約束をごまかされた秀吉激怒 キリシタン禁令 (一部抜粋しています)
天正14年(1586)5月4日、大坂城にいる豊臣秀吉のとこりに、1人のキリシタンバテレンが訪ねてきた。”キリシタン”とは、ポルトガル語で”キリスト教徒”の意。”バテレン”は、同じくポルトガル語の”パードレ(父)”の訛り。つまり、”神父”である。”キリシタン”は”吉利支丹”と当て字されていたが、5代将軍綱吉以後、”吉”の字を避けて”切支丹”と書くようになった。”バテレン”は”伴天連”と表記される。
秀吉が謁見した吉利支丹伴天連は、ポルトガル生まれのイエズス会士で、名をコエリヨといった。
コエリヨは元亀2年(1571)、日本にやって来て下地区の布教に従事していた。下地区というのは、日本を都と豊後、下の3区に分けた、その1つである。具体的には、豊後(大分県)を除いた九州全域である。
しかし、天正9年(1581)に、巡察使ヴァリニャーノが、日本布教句を準管区に昇格させ、コエリヨを準管区長に任じた。だから、コエリヨが天正14年に秀吉に謁見したときは、彼は準管区長の肩書きで会ったのである。
と同時に、コエリヨは、ポルトガルとスペインの利益代表でもあった。
秀吉はこの会見において、コエリヨに1つの頼みごとをした。
それは、大型船2隻を売却してほしいというものである。もちろん、船だけではない。その船を動かす船員も一緒に、という条件である。
これは取引である。取引には代償が必要だ。秀吉が提示した代償は、明におけるカトリックの布教の自由である。
読者に、この取引の意味がおわかりになりますか……?
これは、こういうことである。秀吉は明への出兵計画を持っていた。いずれ日本の全国を統一した暁には大陸に出兵し、明を征服するつもりでいた。その征服した明ににおいて、ポルトガルとスペインは自由に布教してよろしいとお墨付きを与えようというのが、秀吉の出した交換条件である。そのかわりに、大型船2隻を売ってくれというのである。
     ・
スペイン、ポルトガル両国は明を征服したかった。彼らは軍艦と大砲を持っている。だから、明の征服は容易である。そのことは、イエズス会の日本布教長をつとめたポルトガル人カブラルが、天正12年に国王に宛てた手紙の中で断言している。
「この偉大な王国(明)を征服するのに、それほどの経費や武器を必要としていません。なぜなら私の考えでは、この征服事業を行なうのに、最初は7千人から8千人、多くても1万人の軍隊と適当な規模の艦隊で十分でしょう」(高瀬弘一郎訳)
だが、問題は、その軍隊である。ヨーロッパでイギリスと争っているスペイン、ポルトガルに、7千人から1万人という兵力を東洋に割く余力はなかった。
そこで、秀吉の提案なのだ。おまえのところの造船技術をこちらに提供しろ。そうすりゃあ、こちらで明を征服して、そちらに布教の権利を譲ってやろう。おまえさんがたは、明をカトリック国にすればいい。それが秀吉の交換条件であった。
ところが、である。大坂城での会見から1年後、天正15年6月19日、コエリヨは筑前(福岡県)箱崎に滞在中の秀吉を訪ねてくる。秀吉は九州征伐のため、筑前に来ていた。コエリヨは秀吉の九州平定の祝賀に来たのだが、その夜、秀吉は、五ヵ条から成る、
――キリシタン禁令――
を発したのであった。そして、宣教師を国外追放し、長崎と畿内の主要な教会を壊した。もっとも、貿易は従来通り認めるという、大きな抜け穴があったのであるが……。
秀吉が激怒した理由は、コエリヨが提供しようとした船が、フスタ船(小型の南蛮船)であったからだ。こんなちゃちな船でごまかそうとするコエリヨを、秀吉は信用できない奴と見た。そればかりか、コエリヨの態度がでっかく、スペイン、ポルトガルの軍事力を背後に秀吉を恫喝しようとするものであった。コエリヨの持論は、日本を軍事的に征服しようとするものであるから、彼がそう出たのはむしろ当然であった。
しかし、秀吉は逆手に出て、キリシタン禁令をもってコエリヨに応えた。
もしもあの時、コエリヨが大型船を秀吉に提供していたら、その後の日本の歴史はどうなったであろうか……。

                        • -

どうでもいい、じじぃの日記。
ひろさちや著 『歴史にはウラがある』という本を読んでいたら、「カトリックの2国に約束をごまかされた秀吉激怒 キリシタン禁令」というのがあった。
「もしもあの時、コエリヨが大型船を秀吉に提供していたら、その後の日本の歴史はどうなったであろうか」
歴史に「if(もしも)」は禁物といいますが・・・。
秀吉がキリスト教を迫害してもしなくても、植民地にされるときはされるのです?
日本でのキリスト教の信徒数が1%である理由に、この秀吉以後のキリスト教迫害があったといわれています。カトリック人口でいえば0.35%だそうです。