じじぃの「人の死にざま_1613_中浦・ジュリアン(キリシタン)」

The Hidden Christians of Japan 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s0A4HKJo2Q0
中浦・ジュリアン(右下の人物)

中浦ジュリアン ウィキペディアWikipedia) より
中浦 ジュリアン(なかうらジュリアン、Juliao, 1568年(永禄11年)頃 - 1633年10月21日(寛永10年9月20日))は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧使節の副使。ジュリアンは洗礼名。イエズス会士でカトリックの司祭となり、殉教した。
ローマに残っている資料によれば、中浦ジュリアンの父は肥前国中浦の領主中浦甚五郎とされる。ジュリアンは司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたが、当時のセミナリヨは信仰堅固である程度の家柄の子弟しか入学させなかったので、それなりの身分の家の出身であったと考えられる。
キリシタン弾圧と最期】
司祭叙階後は博多で活動していたが、1613年(慶長18年)に領主黒田長政キリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に移った。翌1614年(慶長19年)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選んだ。ジュリアンは九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。
二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、1632年(寛永9年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌1633年10月18日(寛永10年9月17日)、イエズス会司祭のジョアン・マテウス・アダミ、アントニオ・デ・スーザ、クリストヴァン・フェレイラ、ドミニコ会司祭のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士とともに穴吊りの刑に処せられた。

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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
ローマに派遣された天正少年使節団の帰国後それぞれ より
1582(天正10)年、長崎からローマに向かって出発した「天正少年使節団」。イエズス会の宣教師ヴァリニャーノの発案で、大友宗麟有馬晴信大村純忠の3人のキリシタン大名が、伊藤マンショ、原マルチノ、千々和ミケル、中浦ジュリアンの14〜15歳の4少年を、ローマ教皇のもとに派遣したものである。
彼らは、教皇グレゴリウス13世に大歓迎された。中浦ジュリアンが熱病にかかったときには、法王みずから見舞いに訪れたほどだった。
だが、帰国後の彼らは不遇だった。日本の治世が、キリスト教に好意的だった信長から秀吉に移り、秀吉はキリスト教を弾圧していたからである。
そのため、1590年に彼らが帰国できたのも、事前に根まわし工作をしてやっと許可が下りたという具合だった。
その後、千々和ミケルは信仰を捨て、伊藤マンショと原マルチノは、しばらく布教活動したのち死亡。イエズス会にいちばん最後まで残っていた中浦ジュリアンは、年々厳しくなる一方の弾圧の渦中に投げ込まれる。
彼は、捕らえられ、汚物だらけの穴の中にさかさ吊りにされた。さかさ吊りは、頭に血が集まってじわじわ死にいたるという残虐な拷問方法である。
いっしょに吊された宣教師のフェレイラは、苦しさに耐えかねて信仰を捨てたが、中浦ジュリアンは、「わたしはこの目でローマを見た中浦ジュリアンです」とつぶやいて、最後まで拷問に耐えぬき、殉教したという。