じじぃの「人の死にざま_929_支倉・常長」

支倉常長 - あのひと検索 SPYSEE
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支倉常長とルイスソテ ロ、失われた日本外交400年。 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oM4yvfth3CE
海を渡ったサムライの末裔のスペイン人 samurai's descendant's spanish 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UB2bfyonuRI
遣欧使節資料が世界記憶遺産に 藤原道長の自筆日記も ユネスコ (追加) 2013.6.19 MSN産経ニュース
文部科学省に19日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、江戸時代の鎖国直前の日欧交渉を伝える「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館所蔵)と、藤原道長の自筆日記「御堂関白記」(京都市の陽明文庫所蔵)の国宝2件の記憶遺産登録を決めた。18日に韓国・光州で開かれたユネスコの国際諮問委員会が登録の可否を審査、ボコバ事務局長が最終決定した。
記憶遺産は、世界の貴重な記録や古文書を保護するユネスコ事業。国内では、福岡県田川市などが推薦した「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が平成23年に初登録されて以来となる。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130619/trd13061911300007-n1.htm
サムライたち スペインへ渡る 2013年1月2日 NHK
2013年は日本・スペイン交流400周年。1613(慶長18)年、仙台藩主・伊達政宗がスペイン国王及びローマ教皇に慶長遣欧使節を派遣したことに由来します。政宗は、大型木造帆船サン・ファン・バウティスタ号を建造し、家臣・支倉常長を中心とした180名もの武士たちは、メキシコ経由でスペインへ渡り、帰国するまで実に7年がかりの壮大な旅を敢行しました。
政宗は、なぜ使節を送ったのでしょうか? 最近の研究で、その2年前に起こったある大災害との関係が注目されています。仙台藩の沿岸部に甚大な被害をもたらした“慶長三陸地震津波”。実は政宗は、この震災からの復興構想の中に、当時世界最大の強国スペインとの経済交流を位置づけていたのではという仮説です。また、スペインのある港町には、今も“使節団の子孫”だという人々がいます。果たして真相は?
震災に負けず、大海原へとこぎ出した先人たちの挑戦。使節団が持ち帰った国宝の宝物など貴重な資料と最新の研究を通して、慶長遣欧使節400年の謎に迫ります。
http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=12f5720130102
支倉常長 ウィキペディアWikipedia)より
支倉常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
【生涯】
出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバエスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、コリア・デル・リオ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に上陸した。慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。
しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時、既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。
こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在する。仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、断絶した。寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて赦され家名を再興することが出来た。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。資料の中に名をfaxikuraとつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音していた証拠となっている。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812年)まで現存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。

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『日本史有名人の晩年』 新人物往来社編  新人物文庫 2010年発行
支倉常長(はせくらつねなが) (1571 - 1622) 52歳で死亡。(一部抜粋しています)
支倉六右衛門常長(長経)は、伊達政宗の命により、スペイン人のフランシスコ派宣教師ペアト・ルイス・ソテロとともに慶長遣欧使節を率いて月の浦(宮城県石巻市)を出港した。慶長18年(1613)10月28日朝である。政宗が造らせた500トンの「サン・フアン・バウティスタ号」には、日本人とスペイン人180余人が乗船していた。
ソテロは、メキシコ・アカプリコ港への出港は2度目であった。1度目は英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)造船の幕府使節船「サン・セバスチャン号」200トンに乗船している。しかし船は慶長17年9月9日に浦賀港を出航したが、その夜、暗礁と衝突、航行不能となった。
ソテロが徳川家康・秀忠の使節としてスペインに派遣されることを知った政宗は、ソテロに仙台藩士の随行を依頼した。船には「真のフイデス(信仰心)に帰依せし2人の(仙台藩の)武士が乗船していたが、このときは支倉はいない。
1615年1月、支倉はスペイン国王に、政宗の親書『申合条々』を奉呈した。次にソテロが「日本将軍(徳川家康)の使節」と告げ、通称と造船・金銀の採掘・精錬技術の指導を願う「平和協定条項」の実現のため「改めて」懇願しにきたと演説した。6年前の慶長14年に日本に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリゴを将軍がメキシコに創刊したとき、条項案をジさんして行ったからである。
支倉は、マドリードで国王臨席の下で洗礼を受け(洗礼名フィリッポ・フランシスコ)、ローマに行き、教皇政宗の書状を呈し、教皇の脚に接吻して帰国の途についた。
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支倉が出発の地、月の浦に下船したのは、元和6年(1620)8月26日だった。仙台城政宗と再会する。支倉は、ジェノバで簡潔熱(マラリア)に罹(かか)り、セビリアで肋膜肺炎に侵(おか)され、そのうえ心労が重なって疲労は極限状況、まさに幽鬼の姿であった。『貞山公治家記録』は、支倉の報告を「六右衛門物語ノ趣、奇快最多シ」と記している。
元和10年、獄中のソテロが教皇に送った書簡によると、政宗は支倉を大層讃えた。長旅の疲れをいやすようにと家の帰したが、支倉は妻子・家来・下僕の多くを入信させた。子供たちに信仰の弘布と宣教師の保護を頼み、帰国2年後の元和8年7月1日に死んだ、と臨終の秘跡を授け埋葬に立ち会った宣教師たちから報告があった、とある(ロレンソ・ペレス『ベアトル・ルイス・ソテーロ伝』)。享年52歳。病身を信仰活動に捧げたのである。

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