じじぃの「科学・芸術_183_ポルトガル・大航海時代」

Slavery In Brazil / Portugal's role 動画 YouTube
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ポルトガル奴隷貿易

ポルトガルを知るための55章【第2版】』 村上義和、池俊介/編著 赤石書店 2011年発行
大航海時代 (一部抜粋しています)
世界史上の、いわゆる大航海時代は15世紀初頭におけるポルトガル北アフリカ進出に始まり、コロンブスの新大陸「発見」、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見、マゼランの世界周航を頂点にポルトガルとスペイン、そして後続のオランダ、イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が海外に進出して未知の世界を「発見」した17世紀までの時代をさす。わが国では、1960年代ころから「地理上の発見」時代に代わって大航海時代と呼ばれるようになったが、ヨーロッパでは今も「発見」という表現をも用いている。確かに、ヨーロッパ人の主導のもとに未知の島や大陸に到達した行為は、彼ら二とって新しい「発見」であった。彼らは、その進んだ武器と帆船によって半ば暴力的に世界各地に進出することでそれまで孤立状態にあった諸地域を結び、世界を一体化した。当然ながら、植民地支配とともに世界的な人口変動が起こった。ヨーロッパからの自発的な人口移動のみならず、植民地における先住民の激減、アフリカから新大陸に向けて奴隷の輸出という強制的な人口移動が行われ、同時に異人種間の混血も進んだ。物質や文化の交流も盛んになり、ヨーロッパの文化と他の文化が融合して新しい折衷的な文化も誕生した。
この海外進出の先頭に立ったのが、イベリア半島の周辺に位置しアフリカにも近いポルトガルであった。同国は北大西洋を回遊するアソーレス海流を利用できる位置にあり、古くから漁業が盛んで、造船術や天文航法に関する知恵がユダヤ人やイスラム教徒から受け継がれていたこともポルトガルが他のヨーロッパ諸国に先駆けて海外進出を果たすのに有利に働いた。政治的にもポルトガルは、1385年に成立したアヴィス王朝のもとで中央集権かを進め、海外進出を国家的事業として推進する体制が整えられつつあった。
大航海時代の嚆矢(こうし)となる北アフリカ都市セウタ攻略は、市場獲得をもくろむ商人層と領地の拡大を切望する貴族層の思惑が一致したかたちで実現した。それは14世紀の半ばから始まった封建制の危機の打開策を国外に求めるというやむにやまれぬ行動であった。この初期の探検航海を組織、指導したのはジョアン1世の息子ドン・ペドロとエンリケ航海王子である。カラヴェラ船という遠洋航海に適した帆船の発明、天文航法や航海術の改良によって地中海世界を越え大西洋深く航海することに成功した。彼らの王朝のもとにポルトガル船はギニア湾に近い金の産地をめざしてアフリカ西海岸沿いに南下し、奴隷貿易に手を染めた。大西洋上のマデイラ、アソーレス両諸島が「再発見」され、入植者が送り込まれた。ことにマデイラ島では大々的な砂糖生産が行われ、砂糖は島の重要な輸出産業となってフランドルの市場にまで送られた。
ポルトガルで航海術を習得しコスモロジーを学んだコロンブスが西回り航海によるジパング到達計画をカスティリャ女王イサベルに進言して、1492年新大陸「発見」に成功すると、ポルトガル、スペイン両国の激しい領土争いが始まり、トルデシリャス条約が結ばれた。この条卓によって、カーボヴェルデ諸島から西370レグア経腺で東西は2分割され、この分割線から東側はポルトガルの排他的支配領域となった。
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インド洋を征服したポルトガルはさらに東南アジアに進出し、中国との国交を求めた。そして1543年には日本に到達し、まもなく中国から割譲されたマカオを拠点に中国の生糸を日本に、日本の銀を中国に輸出することで莫大な富を得た。ポルトガルは軍事的進出、商業活動に並行してキリスト教の布教も精力的に行った。1542年からフランシスコ・ザビエルの率いるイエズス会が中心となってインド、東南アジアで布教活動を始め、1549年鹿児島に上陸したザビエルは日本にキリスト教を伝えた。
しかしながら、ポルトガルの東洋支配は16世紀から始まったオランダの進出によって衰退し、ポルトガルの関心は砂糖生産が力強く台頭しはじめたブラジルに移った。要塞と商館の確保による点の支配に終始したアジアでの支配とは異なり、ブラジルでは農業開発が中心となって次々と入植者が送り込まれ、19世紀初頭までポルトガル植民地帝国を支える重要な柱となった。ポルトガルでは、大航海時代はナショナル・ヒストリーと世界史が重なる唯一の時代として重視されて、国のいたるところで「発見」にかかわった人物の銅像が建てられている。