Christopher Columbus: An Animated Classic (Trailer)
1492 - Christopher Columbus’ First Voyage
『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
太陽の光を追ってわれわれは旧世界を発った クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)
クリストファー・コロンブス より
ジェノヴァで生まれたとされるクリストファー・コロンブスは、その他のいくつかの有力な商家に雇われ、代理でヨーロッパやアフリカ沿岸での貿易航海をおこなった。
コロンブスは、当初の航路をたどってアメリカ大陸への2度目の航海をおこない、その過程で大小アンティル諸島を探検して、現在はドミニカ共和国の一部であるラ・イサベラに植民地を建設した。
3度目の航海(1498年~1500年)では、カリブ海のイスパニョーラ島とトリニダード島を訪れた。そこで南米の沿岸を発見し、オリノコ川の規模から巨大な大陸を発見したと推測した。おのあいだに、カリブ海植民地の運営方法に入植者が王室へ不平を申し立て、コロンブスは総督の任を解かれた。
最後の遠征(1502年~04年)では、インド洋へつづく海峡を発見したいという望みを持って中央アメリカ沿岸を航海した。スペインに帰還したときには健康を害していて、約束されていた名声も恩恵も得ていないと失意し、しだいに神経状態も悪化していった。コロンブスは1506年に死亡した。
ポルトガルの海洋探検家 より
ヨーロッパの海洋探検家たちは、コロンブスの数十年前から大西洋へ出帆していた。たとえば、イギリスのブリストルの船乗りたちは、「ブラジル」と呼ばれる神秘の島がアイルランド西沖にあると考え、多くが1470年代にブリストル港から探検に出発した。
ポルトガルはマデイラ諸島に貿易の拠点として植民地を設置し、ポルトガル王ジョアン1世の息子のエンリケ航海王子は15世紀にアソレス諸島の探索航海を多数支援した。エンリケは1418年ごろにポルトガルのサグレシュに天文台と世界初の航海学校を創設し、航海術や海図製作技術や科学の研究を奨励した。また、奴隷と金の貿易の将来性にことさらさらの魅力を感じて、アフリカの西岸へ船を派遣した。船は交易の拠点を設置しながら西岸を南下していった。後続の統治者たちも引きつづき航海を支援し、1488年にポルトガル人のバルトロメウ・ディアス隊長がアフリカの最南端に到達した。しばらくして、同じポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわってインド洋を突き進み、海路ではじめてヨーロッパとアジアを結んだ。
ポルトガルがアフリカ沿岸の海路を支配していたので、東洋の豊かな資源を入手するためには、ヨーロッパの近隣国、特にライバル国スペインは代替の経路を探さなくてはならなかった。このころ、教養人のあいだで地球がまるいことは知られていたものの、アメリカ大陸の存在は知られていなかった。したがって、別の経路で東をめざすのであれば、大西洋を西に向かっていけばよいと考えられていた。この航路が多くの船乗りにとって魅力的に見えたのは、だれもが地球の直径を実際よりもはるかに小さく見積もっていたからだった。
支援者をもとめて より
コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に対し、1485年に大西洋を横断して香料諸島へ航海する計画を提案した。だが、ジョアン2世はその計画への出費に応じなかった。ひとつには、ポルトガルはすでに西アフリカ沿岸の探索に成功した実績があり、さらにコロンブスの提案について王が意見を求めた専門家たちが懐疑的だったこともあった。
コロンブスは支援者を求めて国外へも目を向け、ジェノヴァやヴェネツィアなどの海運都市国家へ打診したり、弟をイギリスに派遣したりしたが、吉報は得られずじまいだった。そこで頼ったのが、共同でスペインを統治していたアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イザベルの「カトリック両王」である。両王が相談した航海の専門家たちも、コロンブスの提案に懐疑的だったことから、当初はふたりも拒絶したが、長い交渉のすえに支援に合意した。新たな貿易ルートを確保することが金銭的な見返りをもたらすのはたしかだが、イザベル女王は宗教的使命の観点からも、この航海が東洋にキリスト教の光明をもたらしうると考えた。