じじぃの「中国の海洋進出・中国の野望は鄭和を知ると見えてくる?数学の歴史物語」

Die Drachenflotte des Admirals Zheng He - Gigant der Meere - Teil 1

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6glfu7qcaC0

Zheng He's flagship

河野太郎外相、習近平主席の「米中で太平洋二分」発言に不快感「中国は太平洋と接していない」

2017.11.10 産経ニュース
河野太郎外相は10日、中国の習近平国家主席が9日のトランプ米大統領との共同記者発表で「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間がある」と発言したことについて「中国は太平洋と接していない」と不快感を示した。
https://www.sankei.com/politics/news/171110/plt1711100036-n1.html

海禁 コトバンク より

中国、明・清時代の中国人の海外渡航と貿易を禁止制限する政策。海禁とは下海通蕃 (出海し外国に通交すること) の禁の意味。
明では元末から倭寇、海寇の防止策として、洪武4 (1371) 年以来この政策が堅持され、海外諸国には朝貢貿易のみを許していた。しかし中期に禁令がゆるみ、中国人の密船、密貿易が盛んとなり、これを取締ろうとしてかえって嘉靖 (1522~66) の大倭寇を招く結果となり、ついに隆慶1 (67) 年に海禁を解き、海外渡航の緩和策がとられた。
清では南明の勢力、特に台湾の鄭氏の活動を押えるため遷界令を出し、海禁は厳重であったが、その平定後に緩和され (84) 、次いで乾隆 22 (1757) 年には再び貿易は広州1港のみに限定して、閉関 (鎖国) 政策がとられた。アヘン戦争の結果、この政策はついに放棄された。

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中国の海洋進出問題を鄭和の大航海の史実から考える

2016年06月27日 ハフポスト
中国の海洋進出問題は深刻さを増す一方である。沖縄県尖閣諸島周辺の接続水域に初めて中国の軍艦が入った際の衝撃は、記憶に新しいところだろう。
ところで、中国の海洋進出は、中国ではしばしば明朝時代の鄭和の大航海の再来になぞらえられている。鄭和は大艦隊を率いて計七回にわたって遠征を行なった。南シナ海からマレー海峡を経てインド洋にまで至ったが、その間、沿岸の様々な諸国に寄港し、最終的には中近東やアフリカ東岸の諸国にまで赴いた。中国では7月11日が「航海の日」と定められている。その日は鄭和の記念すべき第一回目の大航海の出発日とされている。
https://www.huffingtonpost.jp/tetsuo-shibata/china-maritime-advance_b_10693918.html

『数学の歴史物語 古代エジプトから現代まで』

ジョニー・ボール/著、水谷淳/訳 SBクリエイティブ 2018年発行

鄭和とは何者か より

1405年、中国の永楽帝の命を受けて、宦官の鄭和が「西方へ下った」。奇妙な言い回しで、現在の私たちなら「南へ下った」と表現したいところだ。しかし中国の地図では、日が昇る東方が世界のいちばん上で西方がいちばん下だったため、彼らにとって「西方へ下る」というのは普通の表現だった。
鄭和は、計7回行われる探検の1回目で、数々の新たな国や地方を発見し、交易をおこなった。中国人が造船技術に大きな自信を持っていたのは間違いない。この航海の向けて葉、およそ300隻からなる巨大な艦隊が編成された。その中には、およそ135m、幅40m、排水量1,500トンの大型船も62隻含まれていた。船体内部は水を通さない隔壁で13の区画に分かられており、中には荒れた海で先頭と最後尾の区画が浸水してもびくともしない船まであった。
艦隊全体でおよそ37,000人の男女が乗り込み、南シナ海を通ってインド洋まで航海した。水だけを積んでいる船、家畜や米と野菜を積んでいる船もあり、陸上の都市さながら、必要なものはすべて揃っていた。
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1421年の第6次の航海がおそらく最大規模で、4つの船団がそれぞれ新天地を探した。うち1つは船団がオーストラリアにたどり着いたのはほぼ間違いない。またジョーゼフ・ニーダムが集めた証拠によると、太平洋を越えて現在の南アメリカのペルーを訪れた船団もあったという。土着のペルー人がこの頃から使いはじめた、ヒスイや太鼓、楽器やゲーム、龍の飾り模様が、いずれも中国の品物に驚くほど似ているという証拠もあり、この説がさらに裏付けられる。
巨大な第6次艦隊の一部は、グリーンランド沖までたどり着いていたかもしれない。そのおよそ60年後にその地を訪れた若きクリストファー・コロンブスが、中国人が訪れていた証拠を見たと主張している。
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イギリス人の元潜水艦長ギャヴィン・メンジーズは、世界中の海流に関する豊富な知識に基づいて、初期の中国人の航海に関するいくつかの説を示している。その著作にはアフリカが描かれた中国の地図が掲載されているが、北西部の膨らみが実際よりもかなり小さい。
しかし、アフリカ沿岸を北上してからその膨らみの南岸を西へ向かう強い海流を乗ったとしたら、航行速度を見誤って、そのために地図上に膨らみを小さく描いたとも考えられる。何しろ、2,000年前のハンノやポルトガル人は、その反対方向へ進むのに難儀し、結局はその強い海流に押し返されて戻らざるをえなかったのだから。
1431年、財宝艦隊の最期の航海で、317隻の船と27,000の人員が出航した。その翌年には、別の中国使節一行が陸路を進み、地中海の商業の中心地ヴェネツィアで貿易の可能性について話し合っている。

しかし帰国してみると、鎖国政策を進めていた新たな明の皇帝が以後の海洋探検をいっさい禁じ、巨大な船は放置されて朽ち果てていった。

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どうでもいい、じじぃの日記。
「1421年の第6次の航海がおそらく最大規模で、4つの船団がそれぞれ新天地を探した。うち1つは船団がオーストラリアにたどり着いたのはほぼ間違いない」
鄭和の艦隊がオーストラリアまでたどり着いていたというのは驚きです。
その後、明の皇帝が「海禁」政策をとった。
その理由は「倭寇」に対する海賊対策にあったという説があります。
今も昔も、中国の海洋進出を阻んでいるのは日本なんですね。
ほんとかな。