紙の発明者とされる蔡倫
Hollander beater
2200年前の紙 より
紙は中国の4大発明(紙・印刷術・火薬・羅針盤)の1つといわれています。その紙はいつ頃、誰が発明したのでしょうか。
432年に成立した中国の歴史書『後漢書』に「後漢の和帝の時(紀元105年)に蔡倫(さいりん)は木の皮、麻、麻のボロ、漁網を原料として紙を作り、帝に献上して褒められた。紙が作られるまでは木片や竹片(木簡・竹簡)に書くか、絹の布(絹帛)に書いたが、これらに比べて紙は使いやすく安いので、人々は蔡候紙として褒めたたえた」と記録されています。これは製紙法の世界最古の記録で、このことから蔡倫が紙の発明者とされてきました(画像参照)。
しかし、それ以前にも紙が使われていたことを示す古代の紙が、中国各地で数多く発見されています。
欧米での機械化への途 より
ヨーロッパに最初に製紙術が伝わったのはスペインのハティバ(1151年)で、これに125年遅れて1276年にイタリアのファブリアーノに製紙工場ができました。ファブリアーノではいくつかの製紙技術の革新が行なわれました。
まず動力に水車を利用し石臼で叩解するスタンバーの発明があります。漉簀(すきす)は綿糸や竹ひご、葦の茎でできたものが、針金を木枠に固定したものになりました。サイズ剤がデンプンから膠に替りました。こうして品質が向上しコストも安くなりました。
また「透かし」も開発されました。これは漉簀の上に針金で作った模様をとりつけると、その部分で紙料が薄くなって、透かして見ると白い模様が見えるものです。ヨーロッパの紙には透かしが多いのが特長の1つです。簀を使った東洋の紙では、透かしの技術はあまり発達しませんでした。
当時イタリアの製紙技術はヨーロッパではもっとも進んでいて、14世紀初めにはイタリアがヨーロッパの紙の供給地となりました。しかし紙の大量消費国であるフランス、それに続くドイツでも紙を自国で製造するようになり、イタリアの紙市場独占は14世紀末には終わります。
また1680年にはオランダで、スタンバーより叩解能力が格段に優れたホランダービーターが発明され、広く使われるようになりました(画像参照)。これは現在も靭皮繊維(じんぴせんい)の叩解や分散などに使われています。
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『銃・病原菌・鉄 (下)』
ジャレド・ダイアモンド/著、倉骨彰/訳 草思社 2000年発行
なぜ中国ではなくヨーロッパが主導権を握ったのか より
中国は、始めの一歩を早く踏み出していた。そして、さまざまな有利な点をそなえていた。それゆえ、中世の中国は技術の分野で世界をリードしていた。中国で誕生した技術は数多くある。そのなかには、鋳鉄、磁針、火薬、製紙技術、印刷術といったものや、本書でふれたさまざまな発明が含まれている。
中国はまた、政治制度の発達においても世界をリードしていた。航海術や海洋技術にも優れていた。15世紀初頭には大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた(訳注 鄭和の南海遠征)。数百隻で編成されたこの船団には船体が400フィートに達する船も含まれていた。乗組員は2万8000人にも達した。彼らは、たった3隻のコロンブスの船団が大西洋を渡ってアメリカ東岸に到達する何十年も前に、インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのである。ではなぜ中国人は、アフリカ大陸の最南端を西に回ってヨーロッパまで行かなかったのだろうか。なぜ中国人は、バスコ・ダ・ガマの3隻の船が喜望峰を東にまわって東南アジアを植民地化しはじめる前に、ヨーロッパを植民地化しなかったのだろうか。なぜ中国人は、太平洋を渡って、アメリカ西海岸を植民地化しなかったのだろうか。言い換えれば、なぜ中国は、自分たちよりも遅れていたヨーロッパにリードを奪われてしまったのだろうか。
これらの謎を解く鍵は、船団の派遣の中止にある。 この船団は、西暦1405年から1433年にかけて7回にわたって派遣されたが、その後は中国宮廷内の権力闘争の影響を受けて中止されてしまった。これは宦官(かんがん)派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団派遣をとりやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。この出来事は、たとえば1880年代のロンドンのガス灯にかわる電灯による街路照明を阻止する法律の制定や、両大戦間のアメリカ合衆国政府の外交政策(孤立主義)などを思いださせる。また、国内の政治状況に対応するため、既存の進んだ技術を後退させていったことは多くの国々をも思いださせるが、中国は国全体が政治的に統一されていたという点で、それらの国々とは異なっていた。政治的に統一されていたために、ただ1つの決定によって、中国全土で船団派遣の中止が中止されたのである。ただ一度の一時的な決定のために中国全土から造船所が姿を消し、その決定の愚かさも検証できなくなってしまった。造船所を新たに建設するための場所さえも永久に失われてしまったのだ。