じじぃの「歴史・思想_325_ユダヤ人の歴史・苦難の僕イエス」

Sermon on the Mount: The Beatitudes

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BTO7-Jarl-E

Jesus of Nazareth

Catholic Good News - INRI: Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum - Jesus of Nazareth, King of the Jews

9/7/2019 - God Is Love
The sign written in three languages ordered by Pilate hung over the head of Jesus as He hung upon the Cross
https://www.romancatholicgoodnews.com/newsletters/catholic-good-news-inri-iesus-nazarenus-rex-iudaeorum-jesus-of-nazareth-king-of-the-jews-972019

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

苦難の僕(しもべ)イエス より

ナザレのイエスがこうした(イスラエルの地の統治者として)メシアの類型のいずれにも当てはまらなかったのは、現存の証拠に照らして明らかである。イエスユダヤ民族主義者ではなく、むしろ逆にユダヤ普遍主義者であった。洗礼者ヨハネと同様、エッセネ派(パリサイ・サドカイ両派とともに、イエス時代のユダヤ教3大宗派の1つ。儀式的、律法的な清潔を重んじ、独身を守り、農業を中心とする修道院的共同生活を営んだ)のうちでも穏健な宗団の影響を受けている。しかしこうした宗団とは異なり、やはりヨハネと同じように、悔い改めと再生の計画をイザヤ書53章に預言されているとおり、民衆にまで宣(の)べ伝える必要があると考えていた。義の教師の仕事は荒野や洞窟に隠遁(いんとん)することではなく、サンへドリンのような権力の座につくことでもない。彼の使命は、たとえ最も厳しい苦難を要求されたとしても、神のまえで自分をむなしくする精神にのっとって、すべての者に教えを説くことである。
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エスは確かにエッセネ派の教えから影響を受け、宗団の面々と共に暮らした形跡がある。また洗礼者ヨハネの宗団と個人的つながりを有していた。しかし残された証拠によれば、基本的にはハハミーム(賢者たちの意)と呼ばれ放浪の旅を続ける、敬虔なユダヤ人集団の一員であった。そのうえイエスは他のどの宗団よりファリサイ派ヘブライ語でパルーシームで「分離者」を意味する集団)に近かった。この見解は誤解を招くかもしれない。イエスファリサイ派を公然と非難し、特にその「偽善」を詰問したからである。しかしよく観察すると、イエスの非難はその言葉を記録した福音書の記述が示唆するほどには決して厳しくないし、包括的でもない。そして根本的なところで、エッセネ派あるいは、後代のラビのユダヤ教の賢者がファリサイ派に対して行なった批判と似ているのである。ラビたちは、自分たちの先駆けとみなしたハハミームと、真のユダヤ教にとって敵であると考えた「偽のファリサイ人たち」をはっきりと区別した。
結局イエスは、敬虔なユダヤ人共同体の中で当時急速に広まりつつあった思想をになう一人であったというのが、本当のところであるように思われる。この一群には、さまざまな思想傾向のファリサイ人が含まれていた。ハハミームの運動の目的は、聖なるものを広め一般化することにある。しかしどのようにしてそれを実現するのであろうか。2つの問題が集中的に議論された。すなわち神殿がすべての中心であり何にも代えがたいという教義と、律法の尊寿についてである。第1の点についてイエスは聖なるものを広めるにあたって神殿が障害になると考える人々と、明らかに同じ意見を抱いていた。現実の建造物に聖職者集団を置き、主として世襲による特権と富とを集中させることは、民衆からの遊離を招き、民を排除する壁を構築する結果となるからである。イエスは神殿を説教の場として用いた。
しかしそうしたのはイエスだけではない。神殿に反対した者たち、特にイザヤとエレミヤが同じ場所で教えを説いている。神殿を不要とする考えは、ユダヤ人にとって新しいものではない。むしろ逆にそれは非常に古い考え方であり、神殿が建立されるはるか以前に存在した本来のユダヤ宗教は、普遍的で到底の居所がなかったと論ずるのも可能である。他の敬虔なユダヤ人の多くと同様、イエスは聖なるものが初等学校とシナゴーグを通じてすべての民衆へ広まるのを見た。しかし神殿を悪の根源とみなし、その破壊を預言し、神殿の聖職者組織を、さらに彼らがユダヤ教に基づいて行政を行ない法令を施行する集権的な仕組みをひそかに軽蔑した点で、大多数の者より一歩進んでいた。

反抗的な長老イエス より

エスの教えと活動を詳細に検討すればするほど、それが決定的内容にかかわる数多くの点について、ユダヤ教を真正面から攻撃したものであったことがより一層明らかになる。それゆえイエスユダヤ当局者によって逮捕され裁判にかけられるのは、避けられないことであった。イエスによる神殿の敵視は、寛容なファリサイ派によってさえ受け入れがたかった。ファリサイ派もまた、神殿での礼拝に中心的意義を見いだしていたからである。
エスによる律法の排除は、根源的性格のものである。「マルコによる福音書」によれば、イエスは「群衆を呼び寄せ」、「外から人の中に入って、人を汚しうるものはない、人の中から出てくるものが人を汚すのである」と厳粛に述べた(7章14-15節)。これは救済と義認(神が義と認めること)の過程において律法において律法が有する意義と役割を、否定するものである。イエスはたとえ貧しく無知で罪深いものであっても、人は神と直接関係を結べると主張した。そして逆に、神からの応答はトーラーへの服従によって引き起こされるのではなく、人間にむかって、少なくとも信仰深い人間に対して注がれる、神の恩寵(おんちょう)だと述べた。神への信仰ゆえに、人は戒律を守るのである。
ユダヤの知識人の大多数にとって、これは誤った教義であった。なぜならイエスはトーラーを意味のないものとして否定し、来たるべき最後の審判にあたって救済を得るために必要なのは、律法への服従ではなく信仰だと言い切ったからである。もしイエスが地方にとどまっていたならば、危害を加えられることはなかったろう。しかしエルサレムに支持者を大勢従えて到着することにより、そして公然と説教を行なうことによって、イエスは逮捕と裁判を自ら招く結果となる。特にイエスの神殿に対する態度が問題であり、イエスの敵はこの点に焦点をしぼった。当時、似非(えせ)説教師は遠隔の地へ追放されるのがならわしであった。しかしイエスは裁判における彼の態度によって、はるかに深刻な刑罰を受ける羽目に陥る。
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ローマ人の総督ピラトは証拠不十分のままイエスを処刑するのをためらったが、政治的理由からあえてこれを行なう。したがってイエスユダヤ法により石投げの刑で殺されたのではなく、ローマ人により十字架へはりつけにされて処刑された。新約聖書福音書に記されたイエスの裁判をめぐる状況は、変則的でつじつまがあわないかもしれない。しかし当時の裁判に関する情報はもともとほとんどなく、そのすべてが変則的に見えるのも確かである。