じじぃの「歴史・思想_324_ユダヤ人の歴史・洗礼者ヨハネとイエス」

John the Baptist BAPTIZES JESUS

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uf_ahdSQGtg

Why did John the Baptist call Jesus the Lamb of God?

FAITH: Why did John the Baptist call Jesus the Lamb of God?

The prophet Isaiah foresaw the Messiah’s sacrifice when he wrote: “He was oppressed and he was afflicted, yet he opened not his mouth; He was led as a lamb to the slaughter, and as a sheep before its shearers is silent, so he opened not his mouth” (Isaiah 53:7).
https://www.trussvilletribune.com/2019/08/29/faith-why-did-john-the-baptist-call-jesus-the-lamb-of-god/

ユダヤ人の歴史〈上巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

エッセネ派とクムラン宗団 より

洗礼者ヨハネは、主としてガリラヤとペレアに住み活動を行った。当時この土地の住民はほとんどがユダヤ人で占められるようになっていたが、マカバイ時代武力によってユダヤへ併合され、多くの場合、強制的に改宗させられたものである。この地では激烈な正統主義と広範な異端主義が共存し、宗教的あるいは政治的な火種に満ちていた。ヘロデ王が死んだすぐあと紀元6年の2度の反乱時に、その大部分が蹂躙(じゅうりん)され破壊されている。ローマ人が総督に任命したヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスは、ギリシャ風都市をいくつか建設して復興を試みた。紀元17年から22年の間に、ガリラヤ湖畔のティペリアスと新しい行政の中心を設け、住民を確保するため周辺の田園地帯に住むユダヤ人を強制して農地を捨てさせ、ここに移住させる。貧民や元奴隷からも人を募った。こうしてティペリアスは一風変わった町となる。ギリシャ風都市でありながら住民の大多数がユダヤ人というのは、他に例がなかったのである。
アンティパスは他の理由でも評判が悪かった。母親がサマリア人であったために、そのユダヤ教は疑惑の目でもって見られたし、兄弟の妻を娶(めと)ることによって、モーセの律法を破った。洗礼者ヨハネが捕らわれ処刑されたのは、アンティパスのこの罪を咎(とが)める説教をしたからである。ヨセフスによれば、アンティパスはヨハネに従う者たちがあまりに勢力を増したため、間違いなく反乱につながると恐れたという。
洗礼者ヨハネは、ユダヤ人が「メシア」と呼ぶ救い主を信じていた。彼の活動はイザヤ書エノク書の2つの書物をめぐって行なわれた。ヨハネは隠者ではなかったし、分離主義者、孤立主義者でもない。事実はまったく逆で、すべてのユダヤ人を対象として裁きの日が近づいていると説いたのである。すべての者は罪を告白し、悔い改め、贖罪の象徴として水で洗礼を受けねばならない。そして最後の審判に備えるのである。ヨハネの使命は、「荒野に主の道を備えよ」とのイザヤ書の命令(40章3節)に応え、世の終わりとメシアの降臨を宣言することにあった。すなわちエノク書が「人の子」と描写したメシアである。
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ヘロデ大王はメシアつまりキリストが誕生したと聞いたとき、自分の王朝に対する脅威と受けとめたかのように、荒々しくふるまう。メシアだと主張する者の言葉を聞くと、ユダヤ人は誰でも当然その人物が何らかの政治的軍事的企てを有しているのだと考えた。ローマ政府、ユダヤ人のサンヘドリン、サドカイ派、さらにファリサイ派でさえも、メシアは彼らの属している既存の秩序に変化をもたらすのだと信じて疑わなかった。ユダヤガリラヤの貧しい民もまた、根本の変革を説くメシアは精神的あるいは形而上(けいじじょう)のことがらについて話すのではなく、あるいはただ単にそのような話をするのではなく、統治、税金、徴税といった具体的権力に関して語っているのだと、信じた。

苦難の僕イエス より

ナザレのイエスがこうしたメシアの類型のいずれにも当てはまらなかったのは、現存の証拠に照らして明らかである。イエスユダヤ民族主義者ではなく、むしろ逆にユダヤ普遍主義者であった。洗礼者ヨハネと同様、エッセネ派(パリサイ・サドカイ両派とともに、イエス時代のユダヤ教3大宗派の1つ。儀式的、律法的な清潔を重んじ、独身を守り、農業を中心とする修道院的共同生活を営んだ)のうちでも穏健な宗団の影響を受けている。しかしこうした宗団とは異なり、やはりヨハネと同じように、悔い改めと再生の計画をイザヤ書53章に預言されているとおり、民衆にまで宣(の)べ伝える必要があると考えていた。義の教師の仕事は荒野や洞窟に隠遁(いんとん)することではなく、サンへドリンのような権力の座につくことでもない。彼の使命は、たとえ最も厳しい苦難を要求されたとしても、神のまえで自分をむなしくする精神にのっとって、すべての者に教えを説くことである。
イザヤが記述した人物は「若枝」であり、「侮(あなど)られて人々に捨てられた」「悲しみの人」であり、「われわれの咎(とが)のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれ」、「虐げられ苦しめられたけれども、口を聞かぬ」人であるはずだ。神の「苦難の僕(しもべ)」は「捕られられ裁きによって取り去られ」、「屠(ほふ)り場に引かれていく子羊のごとく」、悪人とともに葬られ、「罪人とともに数えられる」のである(イザヤ書53章2-12節)。このように描写されるメシアは、群衆を扇動する者、民権主義者、あるいはゲリラの首領といった人物ではない。まして将来、王として現世を統治したり、世界の君主として君臨するはずがない。むしろこの人は神学者であり犠牲に捧げられる者、言葉と行ないとさらにその生と死によって、教えを宣べ伝える者である。
もしイエス神学者であるならば、その神学が有する内容はどのようなものであったのだろう。またそれはどこから来たものであろうか。イエスの思想の背景には、異端のユダヤ教ギリシャ化が進行するガリラヤがある。大工であった父ヨセフは、紀元28年か29年、イエスが洗礼を受ける前に亡くなっている。ギリシャ語の新約聖書に現れるヨセフはヘブライ語の名前であるが、イエスの母親はマリアと呼ばれ、これは(ヘブライ語)ミリアムのギリシャ語化したものである。イエスの兄弟のうち、ユダとシモンの2人はヘブライ語の名前をもっているが、その他の2人ヤコボス(ヘブライ語ではヤコブ)とヨセス(ヘブライ語ではヨセフ)はそうでなかった。それにイエスという名前自体、ヘブライヨシュアギリシャ語形である。一家はダビデの末裔を名のり、大体において体制順応派であったらしい。
新約聖書は、イエスの教えにより家庭内に緊張が生じたことを示唆している。しかしイエスが死んだあと、一家はその教えを受け入れた。弟のヤコボスがエルサレムにあった宗団の長となり、彼がサドカイ派の手にかかって殉教すると、イエスの従兄であるシモンが跡をついた。イエスの弟ユダの孫たちは、トラヤヌス帝時代、ガリラヤに所在するキリスト教徒共同体の指導者となっている。